寄稿 高校35回

わが財産の仲間たち

杉山組 No.7  才本明秀

フランスで開催された2023年RWC.日本代表は勝ち星で並んだ強豪アルゼンチンに力負けし,2度目の8強入りの夢も儚く消えた.残念な敗戦だったけどラグビーはますます進化し続ける.赤地に白線2本のジャージを受け継いだ後輩たちが,将来のJAPANの一員として活躍することを期待したい.アルゼンチン戦の熱気も冷めない頃,杉山からそろそろ書けとLINEがきた.高校1,2年の頃は来る日も来る日も雨乞いし,昼過ぎには毎日憂鬱で授業どころじゃ無かった.いつかは退部しよう,いや今日やめようかと毎日考えた.大方みんな同じじゃないかな.特にサイズに恵まれたわけでもなく,スタミナもスピードも平凡そのもの,特別なものなど何もない,どこにでもいる普通の高校生が集まっただけのチームを全国大会に導いてくれたキャプテンが杉山だ.あいつが言うなら仕方ない.仕事の合間に記憶をたどり,ちびちびと書いてみることにした.1,2年生の頃にはあれだけ嫌いだったラグビーに今でもほんの少し関わっている.むしろもう逃げられない.それがちょっと嬉しいとさえ感じる.この文章を書くことですら満更でもない.

福高を卒業してから昭和,平成,令和と3つの時代が流れた.もしまだ昭和が続いていたら,今年は昭和98年.俺たちが福高に入学したのは昭和55年の春.松田聖子が裸足の季節でデビューし,山口百恵が日本武道館で引退した年だ.まさに“昭和のラグビー”を,福高ラグビー部に入部したその日から,先輩方にたっぷり教えていただいた.入部した頃一番驚いたのはボール磨き.牛皮4枚が繋がれた外皮の中にバルブのついたゴムチューブが入っており,そこに空気を入れて膨らますのが当時のボールだった.雨の日は外皮が水を吸って重くなり,表面はツルツルですぐにノッコンしてしまう.信じられないかも知れないが,我々の時代は皮のボールにツバを吐きかけ,布でゴシゴシ擦って磨き上げるよう教えられた.ボールを磨く布にしても,一番ボールをピカピカにできるのは使い古したソックスだと習った.今冷静に考えると信じられないくらい不潔だし,たぶん嫌な臭いがしたことだろう.でも不思議とボールを触りたくないなんて気持ちにはならなかった.特に小さい体でプロップをこなしたFが磨いたボールはいつもピッカピカだった.でもFがボールを磨くとき,大量の唾液をボールにドバーって伸ばすのがすごく気持ち悪かった.ボール磨きは1年生の役目だったので,朝早く部室に集まり,割り当てられたボールを磨いてから授業に行った.次に衝撃的だったのは何人かの先輩方の風貌や髪形.中学から高校に入りたての頃は,学区一の進学校なのにヤク〇みたいな人が沢山いるのはなぜだろうと本当に不思議だった.でも見た目とは違い,先輩たちは後輩に優しかった.練習中に水を飲んでも良いことは嬉しい驚きだった.当時の野球部など練習中に水なんか飲もうもんなら酷く叱られてグランド外回りさせられていたと思う.でも福高ラグビー部では,でっかいポリバケツにマネージャーが用意してくれた冷たい麦茶で水分補給することができた.今ではその姿を見ることも無くなったが,魔法のヤカンというやつがあった.ヤカンの水を掛けられたら痛くても取りあえず立ち上がる.練習中だろうが公式戦だろうが,誰かが倒れて笛が3回鳴ると,水の入ったヤカンをもって走って来た.今では倒れた選手のもとにメディカル駆け寄って試合を止めることなく処置をする.これもラグビーの進化だ.キックティなんて高校時代には記憶がない.プレースキッカーはグランドの土をかき集めて小山を作り,そこにボールを立てて蹴る.たまに芝のグランドで試合できるときには,砂を入れたコップを持ってキッカーのところまで走って運んでいた.

練習は辛かったけど,高校の3年間はとても恵まれていた.2学年上の先輩方が久しぶりの花園出場を果たし,1学年上の先輩たちがそれに続いて福岡県大会を制した.そのお陰で,3年生になると全国大会に行くのは特別なことではないと感じていた.テレビ番組で練習の様子が放送され,NHKのスタジオに呼ばれてインタビューを受けたこともあった.もちろん我々の同期のメンバーだけでなく,優秀で逞しい後輩も沢山いたから当時県内では無敵だったし,まだ東福岡もちっとも強くなかった.実際,3年時に負けた記憶があるのは夏合宿の大分舞鶴やら,高鍋高校との練習試合,それと花園2回戦の相模台工業との試合くらいじゃなかろうか(いや他にも負けゲームはあったと思うけど,強い相手との試合は頭を打ったのか憶えていない).辛いことと言えば,夏合宿こそ辛さの代名詞だ.湯布院の少年自然の家みたいなところで,九州各地からそれこそ県内一位の強豪校が集まり,朝から晩まで,クソみたいに走らされ,一杯試合して,疲れすぎて飯食えなくなって,体じゅうが打撲状態で,それでも朝練があるからって叩き起こされる.あんなにキツイ合宿はもう二度とゴメン.いまでは間違えなくドクターストップだけど,当時は頭を強く打って記憶をなくした状態でも,頭からやかんの水をかぶっては立ち上がり,最後までプレーした.こんな経験があれば多少のことには動じない.若い頃の苦労は買ってでもと言うけれど,一度経験すればもう腹一杯.チューリップハットと薄ピンク色のポロシャツに白い短パン姿で「今のは良かった,まいっかい.アゲーン」と言いながら何度もキッツイ練習を体で覚えるまでやらせてくれるオヤジこと南川監督と,体格は間違いなくプロップだけど昔はバックスだったという三野先生のどこまでも熱いご指導のもと,臭くて痛くてきつくて辛い昭和のラグビーに,どっぷりと漬からせていただいた.練習は厳しくても体罰の記憶は一切ない.夏合宿で練習試合した広島工業の選手は,福高との試合のあとコーチからひどく罵られ,鼻血が出るほどビンタされていた.それはさすがにヤバイだろと思いながら横目で見ていたものだ.ラグビーに限らず,昭和のスポーツは体罰と表裏一体だったように思う.でも福高ラグビー部に限っては,体罰とは無縁だった.ただ,下級生がピリッとしていないときに上級生がカツを入れるダルセンの伝統はあったかな.

高校3年間で一度だけ,三野先生に力いっぱいビンタされたことがある.試合のために午前中の授業を公欠し,他校で行われた試合を終えて昼過ぎに高校に戻ってきた.本来であれば戻って以降はそれぞれの授業に出るべきところ,我々を含む数名の上級生が授業を無断欠席して帰宅してしまう事件があった.帰宅の表向きの理由はそのあとすぐに予定されていた定期テストの準備をするため.公式戦のあと試験期間が終わるまでの一週間ほどの間,勉強のための休部期間になっていた.公式戦も一旦休みにはいり,しばらくは練習もないのだから今日くらい早退したって良いだろうと都合の良い思い込みをしてしまい,私の場合は石橋先生の体育の授業をさぼって勝手に早退し,家で試験勉強を始めていた.ほどなく高校から,直ぐに戻るようにと電話がかかってきた.やばいと思いながら学校に戻るとすでに数名の部員が職員室に集められており,試験勉強だからといって授業をサボってはいけないみたいな小言を言われた.それぞれの担任からも反省を促す話があったあと,無言で近づいてきた三野先生から強めのビンタを頂いた.三野先生の目は潤んでいたように思う.三野先生の顔を見たとき,本当に申し訳ないことをしたと後悔した.ラグビー部だから少々のエゴは許されるだろうと考えた自分が恥ずかしく,心の底から反省した.この事件が契機となり,ラグビーしているからこそ卑怯なことはできない,運動も勉強も本気でしなければと思うようになった.大学を出て研究職で食ってこられたのは,三野先生のビンタのお陰に違いない.今でもはっきりと思い出せるのは勝ったゲームより負けた試合とか,すごく怒られたり失敗したりした経験とか,そんな経験ばかり.でも当時の負の経験が,今の自分の生きる糧になっている.沢山失敗してよかった.

ワールドカップを見ていると,昔のラグビーとの違いを思い知らされる.密集でボールを争奪することは昔も普通だったけど,ジャッカルというプレーは比較的最近のラグビー用語だ.レフェリーがユーズイットなんて言うことはなく,密集は支配側がボールを出すか反則が起きるまで,いつまでも団子状態で押し合っていたように思う.ラインアウトはただFWがまっすぐ並んで真ん中にボールを投げ入れる.リフトなんてない.大体は前から2番目の選手が自力でジャンプし,スロアーがそれを目掛けてタイミングよくボールを投げ込む.タッチを切ったボールのクイックスローとか,セルフスローインなんて知らない.スクラムを組むときは,レフェリーがクラウチとか,バインド・セットなどと音頭を取ってくれることは無く,ボール投入側のフッカーが「サッ」と掛け声をかけると同時に自分たちで組み合うものだった.スクラムハーフはスクラムの真ん中に,まっすぐボールを入れるもので,今日のように味方側に入れれば確実にノットストレートだ.フェアキャッチは両足を地面につけて,静止した状態で「マーク」と叫ぶもの以外は認められなかった.レフェリーはほぼ一人で試合全体をコントロールし,アシスタントレフェリーは単にタッチジャッジと呼ばれラインアウトの位置を指示するだけの役割.もちろんTMOなど存在しない.シンビンとかイエロ,レッドーカードとかが出てきたのもだいぶ後からで,少々の反則でも退場にはならなかった.むしろ持ち上げてのけ反らせて倒すのが最高のタックルだと思っていた.最近は土のグランドで試合や練習をすることが無いのかも知れないが,小石がごろついたグランドで,毎日同じ位置に生傷をつけながらセービングやタックをするのが普通だった.練習初めのランパスは心臓が飛び出るほどきついし,ディフェンス・アタックではデカくて足の速い先輩を止める度に力いっぱい頭からぶつかって,しばしば脳震盪を起こしていた.

この文章を書いていて気づいたが,知らないうちに高校を卒業して40年が過ぎた.大学に入って新しい仲間と出会い,大学を卒業して就職し,家庭を持って子供を育て,子供たちもある程度成長して親離れする年齢になった.慌ただしく毎日を過ごす中で,高校時代の同期と会う機会もめっきり減った.数年後の還暦を機に,皆と再会する機会が増えることを切望している.ちっぽけな自分一人では何もできなかった.一緒に苦しんで成長した仲間がいたから今がある.仲間たちこそ我が財産.彼らに引き合わせてくれた母校ラグビー部の一層の発展を心より祈念している.