寄稿 高校45回

3/100の純情な伝統

茨木 誠

バブル景気が終焉を迎えつつあった1990年(平成2年)4月、福高ラグビー部の門を叩いた私たち高校45回生の前には、起承転結に富んだ濃密な3年間が待っていました。

「起」長年指揮を執られた三野先生に替わり中川原先生が着任、私たちの高校ラグビーが始まる。まだ20代と若かった中川原先生の指導はとてもエネルギッシュで、手本として示されるプレーに圧倒される日々であった。

「承」個々の事情があったと思われるが、1学年上の先輩たちが次々に部を去られ、最終的には3人に。下級生主体のチームは中々強くなることができず、どこと試合をしても負けが続く、まさに低迷期。

「転」不甲斐ない成績が続く中、2年の夏に部の体制が刷新され、元木賢一監督、森重隆、豊山京一両コーチをはじめとする高校生にはもったいないような豪華な指導陣のもと、少しずつ力を付けていく。秋の花園予選では地区予選で福岡工業(その後決勝に進出)に敗北したものの善戦(WTB蓑原先輩のトライはその象徴)、秘かに手応えを感じ始める。

「結」入学以降公式戦での地区予選敗退が続いていたが、3年春の九州大会予選で初めて県大会に進出(トライ数差でベスト16止まり)、ノーシードで挑んだ最後の花園予選はあれよあれよと勝ち進み、準決勝筑紫丘との死闘の末、東福岡との決勝戦まで駒を進めた。結果6-20、ノートライでの敗北に終わったが、周囲にも奇跡と映ったのではないか。

起承転結の前後にも語り尽くせぬ思い出がたくさんありますが、あらすじとしてはこんな感じです。

頭というより体で覚える反復練習が多かった中で、今でも心に刻まれている恩師中川原先生の教えを2つ、ここで紹介させていただきます。

ひとつは、練習の中で私が「敵」という言葉を発した際、即座に「‘敵’じゃなくて‘相手’だろう!」と指摘されたこと。今風に言うと相手チームを「リスペクト」しなさい、ということだと理解しています。高校卒業後もラグビーを続けていますが、今でも厳守しています。

もうひとつは、県内でどこにも勝てない頃から「そんなことでは花園には行けない」どころか、常に「そんなことでは花園で勝てない」と指導を受けてきたこと。福高の歴史を考えると当然かもしれませんが、目標は花園出場ではなく花園で勝つこと。例として出てくるのは県内のライバルではなく、いつも天理や秋田工業など全国レベルの強豪でした。このマインドセットは社会人として仕事をするうえでも心がけています。

最後になりますが、3年間、特に3年秋の花園予選を迎える時期から先輩方に繰り返し言われたのは「伝統の力を信じろ」という言葉。純情な私たちはその「力」が何なのかよくわからないまま大きな声で返事をしていましたが、今となっては何となくわかったような気がしています。そしてこの「伝統の力」が精神性も含めて目に見える形で体現されているのが、福高最大の武器である低くて速くて湧き出るようなタックルではないでしょうか。伝統をつなぎ、力を与えてくださった代々の先輩方に感謝するとともに、私たちの3年間が少しでも後輩の皆さんの「力」になることができていればこの上ない光栄です。