寄稿 高校13回

伝統を背負って

高川健世

昭和三十五年一月三日対北見北斗戦敗北。 三年生は泣くのをこらえていた。「二年生、この仇は取ってくれ」という言葉が我々の胸にジーンと染み渡り、我々の目から涙が堰を切ってどっと流れた。この口惜しさを決して忘れまい、勝つために練習するのだ、からだが続く限り、と互いに心で誓い合った。

一月十五日の修猷館との定期戦がすみ、 これを境に伝統の一頁は我々が綴らなければならなくなった。からだが大きく、強力だった人達が多数去って行き、からだの小さな、少数の者達が残された。それでも我々は勝たねばならなかった。伝統の重みだけが肩に押し掛かってきた。

春の基礎練習では、我々の練習の激しさを先輩達は何も言わずに観ていた。十人に満たぬ時もあり、これから先を考えると暗澹たる気持ちにさせられた。先生、先輩の足が、グラウンドから遠のくにつれ、今まであまりにも恵まれていたため、我々は猜疑心の固まりになっていた。それが良い方に働き、「今にみていろ、見かえしてやるぞ」と全員で前にも増して走りまくった。

新人戦が始まると、福岡県随一といわれたバックスを有する新チームは、現在南極観測隊員である石本、その他の協力を得、難なく決勝戦に進出するも、練習時の負傷者続出により、他のパートから勝ち進んできた福岡工業と闘わずして新人戦の幕を閉じた。

待ちに待った新学期。新一年生が十二名入部してきた。我々は狂喜した。しかし、前が見えていなかった。新入生のレベルを引き上げるのに、あまりにもせっかちすぎた。夏合宿に入る前までに、十二名の新入生は、三名を残すのみとなっていた。

昭和三十五年の一年間を考えてみると、世の中は大きな転換期であった。複雑に絡みあい多数の負傷者を出した三井三池炭鉱労働争議。国会乱入、樺美智子さんの死、そしてその後に問題を残した安保騒動。アイゼンハワー訪日阻止に端を発したハガチー事件。河上丈太郎、岸首相刺傷事件。高度成長政策を掲げた池田内閣誕生。社会党委員長浅沼稲次郎刺傷事件。米国では、ニューフロンティア精神のケネディが大統領に当選。アジアでは、ベトコン(南ベトナム民族解放戦線) 結成とゆれ動き、新時代の息吹きが聞えていた。そして、この頃から試験地獄という言葉も一般に言われだし、高校生はほとんど勉強のみへと追いやられていった。我我の同級生の中には、いかに生きるべきかを悩み、苦しんでいる者も多数いた。我々は彼等とは同級生でありながら別世界にいた。彼等にとって、ひたむきに勝利のみを目標として突っ走る我々が羨ましく映っていたようである。後年よく、そうだったと聞かされる。この社会の動きは、我々以後数年の福高ラグビー部を象徴しているかのようでもあった。我々はこれ等の事件に全く無関心であり、ひたすらグラウンドに出て走り続けていたのである。

部員は少なくとも時は流れて行く。僻み根性でいっぱいだった我々も、夏合宿ともなると、その言葉だけでバテ上げてしまった。連日三十人以上の先輩が駆けつけ、共に泥にまみれてくれた。毎日の練習マッチは十五人揃わぬため、いつも二、三人の先輩に加わってもらってのものだった。わかっているダミイに引っ掛かり、タックル、セービングをサボり、先生、先輩を怒らしたことも一度や二度ではなかった。今考えてみると、朝の練習に毎日バイクで駆けつけてくれた新島さん。今日こそは先輩は誰も来ていないだろうと期待して、眠い目をこすりながらグラウンドに出ると、いつも旧体育館の溝の上に坐って我々の出て来るのを待ってくれていた梅津さん。弱いとわかっていても、毎日来てくれた先輩方に頭が下がる思いがする。

夏合宿も終り、例年行なわれる総会の時も先輩に加わってもらっての対OB戦であった。OBチームに敗れたのは勿論である。
現役の決意表明で、「必ず優勝してきます」という言葉が、言う方にも聞く方にも虚ろに響いたことであろう。

夏休みも終ると、柔道部から金鷲旗争奪戦で先鋒として活躍し福田、福高開校以来の強力バレー部のキャプテンとしてその重責を果たし終えた鶴田の入部があり、やっとチームの編成ができるようになった。

先輩諸氏から聞いた保善、秋田工業の情報を自己と引き比べ、半ば落胆、半ば奮い立って、国体予戦へと入っていった。準決勝までは難なくで押さえて勝ってきたものの、新人戦の時、県下随一と言われていたバックスも伸び悩んでいた。決勝の対福岡工戦では、涙をのみ国体出場は不可能となった。この時FWの平均身長差六センチ、平均体重差七キロであり、FW戦の敗北が結果に結びついた。

これを最後に鶴田が肋膜でたおれ、マネージャー的な役割をするようになり、またもや目算が狂ってきた。しかし、一年生の日野が特訓による特訓でバックローに定着、その役割を果たすようになった。

国体予選に敗北後、福岡電波が執拗に試合を申し込んできた。煩わしかったのが本音であるが、全て受けて立った。この時の三年生が福岡電波の初代ラグビー部員であり、昭和四十三年、第四十七回大会の全国制覇の礎は彼等によって造られたのである。

秋季国体は熊本で行なわれた。数人の者が全国のレベルを自己の目で確かめようと熊本まで出かけた。そのレベルの高さに意気消沈して帰ってきたが、福岡工業が決勝戦まで進出していたので、微かな光を見出し、また、前年度の北見北斗戦敗北の涙を思い起し、またもやハードトレーニングへと入って行った。

練習の時のトラブルも再三であった。しかし、それらは、みな練習に対する熱意を互いに云々するものであり、有意義なものであった。

十一月十九日から最大の目標である全国大会の予選が始まった。水産高校、香椎高校、八女高校には大勝したものの、九州工業には辛勝、飯塚商業との決勝にも後半追い込まれたが、辛くも勝ちを握り、福岡二区代表として、福岡一区代表の福岡工業と共に、全国大会出場権を獲得した。

全国大会も近まり、組合せが発表されると全員が驚いた。またもや水戸農とである。二年連続顔が合い、昨年まで一勝一敗である。こんどこそは決着を付けねばと全員奮い立った。しかし、水戸農は昨年のレギュラーが十二名残っており、身長・体重の我々との差は、福岡工業との差と同程度である。難敵に当ったのである。

門田先生の尽力により水戸農とタイプの似た、福岡工業を招いての合同練習が始まった。 我々は小細工では福岡工業に勝っていた。我々にはそれが大きく映り、全国制覇も夢ではないと、自信が持てるようになってきた。

西宮への出発が間近かに迫った頃、日野が足を負傷、出場不可能となった。我々は暗澹たる気持になった。そこで窮余の一策として、二年生までスクラムセンターを務め、三年生になり退部していた木下を出発前夜、久和先生が家族の人達を説得し、連れてくることに成功、またもや危機を脱することができた。

感激の見送りを博多駅頭で受け、全員闘志を胸に西宮へと出発した。

昭和三十六年一月一日。本大会は、大正七年に第一回を開催以来、四十回を数え、その記念式典で、我々は秋田工業の二十七回に次ぐ二十三回出場により、最多出場校として、この伝統を育んできた諸先輩に代わりその栄誉に浴した。

この感激を噛みしみて我々は宿敵水戸農と対戦した。激しい風の中でトスに勝ち前半風上に陣した。試合は猛烈な肉弾戦となったが、我が方は劣勢だった。スクラムはメクリ上げられ、タッチは取られた。しかしボールを得ると風上を利して敵陣深く攻め込み、果敢に攻めた。だが、敵の守備は堅く容易に得点できず、試合開始後一五分、敵陣で得た反則でPGを試みたがゴール成らず、遂に前半敵陣で多く戦うも得点するに至らなかった。

後半、風下に位置するや、前半我々に味方してくれた強風は敵をより有利にした。一〇分から二〇分は我が陣のゴール前での攻防で終止した。ゴール前のペナルティーによる敵の突進をくい止め、もつれると又もや敵ボールのペナルティー。スクラムトライを狙ってスクラムの要求。我々はバックスも加わって必死に食い止める。ペナルティーを得、フリーキックするも風はボールを押し返し陣を進めることもできぬありさま。こういった事の連続であった。しかし、二〇分を過ぎたぐらいからは逆に押し返したが、最後のチャンスもものにできず0-0のまま試合終了の笛を聞いたのである。抽選に全ての望みを託したが、これに敗れ、勝利の女神は我々に微笑まず涙をのんで翌日帰途についた。

一月十五日、修猷館との定期戦に勝利を収め、我々の苦闘の一頁も閉じることになった

現役よ、伝統に驕ることなかれ。今また、福高ラグビー部も転換期にさしかかっている。全員の若さと、血と、汗と、英知で切りぬけようではないか!

柔道部からの福田、バレー部からの鶴田もそれぞれ進学し、ラグビーを続けて自己を試した。また、昭和四十八年七月二十一日、十一時、バックローとして活躍し、その技量は県下随一といわれ野中が若くして故人となったことを特記しておく。

<昭和三十五年度公式戦戦績> (新人戦不明)

国体予選
 九月四日  福高(不戦勝)筑紫丘
 九月十一日 福高 28-0 香椎高
 九月十七日 福高 42-0 八幡高
 九月十八日 福高 10-0 嘉穂東
 九月二十三日福高 0-14 福岡工

全国大会予選
 十一月六日  福高 50-0 水産高
 十一月十九日 福高 19-8 九州工
 十一月二十日 福高 58-5 八女高
 十一月二十三日福高 16-8 飯塚商

全国大会
 一月一日 福高 0-0 水戸農

定期戦
 一月十五日 福高 27-3 修猷館

<部員>
三年生 石川昌和・石本恵生・大津時男・木下英宣・小宮肇・首藤昇悟(横町)・高川健世・鶴田健一郎・長末雅之・野中通紀(故人)・林輝夫・福田忠直

二年生 安部優・飯田恒久・井上尊之・東田泰斗・山田正人

一年生 石上正彦 (故人) ・駒谷恒房・日野博愛・黒瀬武昭・内山健二・吉田義夫

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.210)