寄稿 高校22回

「ラグビー」から「闘球」へ

久羽 博

時局は日支事変から大東亜戦争に突入したばかり、まだ空襲されることもなく、大本営発表は常に景気がよく神洲不滅の大日本帝国は健在であった。福中在校生に時の内閣総理大臣 東條英機の息子がいて、よく「もう一歩」といった飲食店でいっしょになったのを記憶している。 登下校は巻脚絆(ゲートルと呼べなくなりつつあった)でしっかりと身を固めなければならなかった。 年中行事になっていた四十八キロ行軍は、スタミナに自信のあるラグビー部員のわれわれにも、いささか苦痛であった。 たのしみにしていた朝鮮満洲方面への修学旅行の中止は、日本の前途に一抹の不安を覚えさせたが、神風特攻隊の相つぐ戦果の報道が、ラジオの拡声器から流れる軍艦マーチのリズムとともに勇ましい限りであった。「ラグビー」の用語が「闘球」と変えられた時代である。

戦争のまっただ中で先輩の来校もすくなく、食糧事情もしだいに悪くなっていたはずなのに、われわれの練習は相当に激しかったと思う。 試験中も練習をし、盆三日くらいしか休まなかった。

部員数がギリギリの状態で、フォワードの相手をバックスがつとめ、バックスが押し勝ったりすると喧嘩になったりした。ノッコンは「ゆさぶり」の無期延引につながるので、めったなことにはミスはできない雰囲気があった。福中の校舎の壁や校庭の土には、先輩たちが戦場に征ったあとでも、福中ラグビーの伝統の、目に見えない光りや匂いのようなものが沁みついていたのに違いない。グラウンド以外では、ふざけあったり、ワルソウしたりしていても、ひとたび練習開始になり、ランパスの頃になると火の穂のようなものが地を這うのだった。 相言葉はもちろん「全国制
」であった。

四年生の時は九大工学部グラウンドによく通ったように思う。激しい練習の終りに、白水久主将が「目標は全国制覇ぞ!」と常に叱咤する。と、きまって常に「イエスサー」とこたえていた黒岩正先輩の声の調子が、なぜかひどくおかしく、吹き出したいのをこらえるのに困ったことであった。後日、海軍機関学校を経た凛々しい姿の先輩とばったり博多駅で出会い、ひと言ふた言立話をして別れたことがあったが、それが彼の短い人生の最後の姿となってしまった。
短いといえば、われわれの同級生でいちばんファイトのあった河野正次は、いつの間にか予科練に入隊してしまい、休暇をいただいて帰福、貴重な時間をわざわざ訪ねて来てくれ、いちにち話したのが最後になってしまった。その時彼が手渡していった全国大会出場記念の小さな楯と、戦闘機を背にした飛行服姿の一枚の写真は、今に小生の部屋の小箱の中に生きつづけている。

河野とは対照的な、あまりものもいわなかった武井周一も戦死して、早く人生を切り上げてしまった。今も黙って静かに笑っているような気がする。

三十年も春秋が流れ去っているので想い出が前後し、頭の中でなかなか整理することができない。

福中ラグビー部に入部した当初、タックルの呼吸、セービングの要領をのみこむまでの痛かったこと。肩がしびれ、ヒジの傷は治る間がなく、練習のたびに新しい傷口をひらいたものだった。
ある日、九大工学部グラウンドだったと思う、福岡高商(現福岡大学) 中村孝先輩に、練習マッチで強烈なタックルを敢行し、一発で倒すことができた。「先輩は起きあがれないはずだ」と思った。「ようし、よかタックル」とひと言いわれ、タックルに開眼し、同時に「道遠きかな」の感を深くしたことであった。 先輩のモノのいい方は独特であった。「頑張れぞ」「突っ込めぞ」「しっかり取ぞ」……。 命令形をさらに強めて必ず「ぞ」がくっつくのだった。

五年生の時は春日原が多かった。夏の合宿は春日原のお百姓さんの家を借りて実施された。練習着というよりはボロぎれのような、ゾウキンのような布を身につけて、毎日とっぷりと日が暮れるまで西南学院との練習マッチであった。ながいながい灼熱の日であった。練習マッチのあとの練習がまた一段と入念であり、執拗であった。加勢田太郎先輩が、人家に灯がともりはじめ、真っ暗になっても練習を止めない。月が出る。ボールはもうまったく見えない。ボールかコウモリか見当がつかなかった。やっと終る。「あしたからハクボクば用意しときやい!」。(編集部注 ハクボク=チョーク。暗い中でも見えるよう白いチョークでボールを塗るということだ)練習終了後の合宿所までの道の月の美しかったこと。水のうまかったこと。あんなうまい水は、その後二度と味合うことがなかった。

今、新幹線工事を指揮している吉原茂美は、練習のピークになると、顔をしかめて、僅かの時間によく話しかけてきたものである。「羽あちゃん、きつかあ、羽あちゃんな、きつうなかと?」「きつかくさっ」

篠栗の南蔵院住職として今や高僧の風格があり、善男善女に有難いご法話を説いている林覚雅こと林四郎は、春日原の月を仰ぎながら話したことを覚えているだろうか。「いつもオラあ騒いどるばってん、羽あちゃん、ほんなこたあオレはさみしかとばい」。

南川昌一(昌一郎)は、伝統を誇る西南大学の監督として地元大学ラグビーの発展に貢献した。タックルやアタリを常に強調する気骨の男だが、反面クラシック音楽を聴くのが好きだった。

永江寿は、もの静かな、瓢々たる風情で、人あたりもやさしい肌ざわりだったが、彼のタックルは槍で突き刺すような必殺の威力があり、福中が幾度となく命拾いしたものである。

瀬戸誠とは、練習の帰途、よく文学の話をしたような気がするのだが、思い違いであろうか。先年、英仏遠征の全日本チーム応援にいっしょにヨーロッパを旅行した。ラグビーに対する愛情は今も衰えていない。

斉藤守高は、仕事の関係で世界中を飛び回っている。福中時代からどことなくおしゃれであったが、慶応を出て今は婦人服の流行を左右するコーディネイターである。

主将清原耕三と副将の小生とは、五年生の秋は全国大会に備えて寝食を共にし、同居して練習計画や作戦を練ったことだった。

今のようにチーム数は決して多くはなかったが、修猷も福商も嘉穂も強く、全国大会出場権を得るまでは並大抵の努力ではなかった。修猷には、本城、堀、国松、今井等がおり、福商には、渡辺、山崎、嘉穂には、荒木、野見山等がいてうるさい存在であった。

さて、全国大会のことだが、われわれの時代の正式名称を伝えておこう。文部省大日本学徒体育振興会主催第二十五回全国中等ラグビー大会である。 福岡中学引率者は、軍事教
練の石蔵中尉であった。大会参加章は、突撃する兵隊のメダルに「選士章」と書いた布がつけてあった。選ばれた若きサムライとでもいったところか。ラグビー試合の記事用語「若き銃後学徒の意気まさに天を衝く」「肉弾の激闘」 「健闘絵巻を繰展げた」等であった。大会の開会も、国旗掲揚、宮城遙拝、黙禱の後はじまった、と思う。福中のユニフォームは、染色(物資)の欠乏から白地に赤線二本である。正規の今のユニフォームとちょうど正反対の配色であった。

第二十五回全国大会の成績は、決勝で天王寺に惜敗、準優勝にとどまって無念であったが、第一戦の対慶応普通部(慶応高校)の試合であげた40のスコアは、全国中等(高校) ラグビー大会五十年の歴史の中でも燦然と輝く記録ではなかったかと思う。チームメイトのために一言付加しておきたい。

この大会をもって戦前の全国大会は終止符を打っている。 戦雲急を告げ、日本ぜんたいが一億玉砕の標語のもとに、ポツダム宣言まで暴走するのである。原爆投下。敗戦。 混乱。新しい日本、新しい時代の到来。新しい歴史の開幕。その開幕のしょっぱなに、西村強三主将の福中ラグビー部が、全国制覇の金字塔を樹立するのである。

福中ラグビー部、ばんざい!

こうして福中・福高ラグビーの五十年の歴史の流れの中で、われわれと関係のあった時代をふり返ってみると、われわれの時代も、まんざら捨てたものでなく、かなりの水準を維持していたのではなかったか、と思えてくる。 四年生の時の第二十四回全国大会は、都合で二分されて挙行されたものであったが、全国大会は全国大会であり、全国優勝は全国優勝であろう。その前が第二十三回大会の加勢田チームの準優勝、われわれが五年生の時の第二十五回大会がやはり準優勝、第二十六回大会が西村チームの優勝とくるのである。

みんなもう壮年というにはすこし無理があり、初老といったほうがふさわしい年齢に達している、と思うとなにかもの悲しく「光陰矢のごとし」の感を禁じ得ない。想いおこすのは、福中時代のチームメイトの「紅顔」であって、その間の歳月が嘘のように思えてならない。福中ラグビーの楕円の洗礼を受け、戦火をくぐりぬけ、めまぐるしいこの世を、われわれはここまで生きてきた。三十年を経過した今でも、 福中ラグビー部時代の想い出は、宝石のように光りを放ちつづけている。おそらく生涯を通じてその光りは、小生の心の底で消えることがないだろう。