寄稿 高校27回

100年の積み重ね

村上純

私が2年生の時に福中・福高ラグビー部創部50周年の記念式典がありました。振り返ってみればもう半世紀も前の話です。

積み重ねられた歴史の間に、福高で初めてラグビーを始めた方もいれば、兄弟で、親子で福中・福高ラグビー部の先輩や後輩になった方もいます。新島先輩、西先輩、南川先輩、私もその一人です。親子で先輩と後輩、敬語を使わなければならない「内と外」の使い分け、何かぎこちない。お陰で私は福高の夏合宿を4回やることになりました。100年経てば三代で福中・福高ラグビー部ということがあるかもしれません。生徒の時は理不尽で非常識だと思っていたことが、何故か年が経てば、それが勇気や誇り、青春の思い出に変わります。

高校27回の我々は、幸運にも1年から3年まで九州大会と全国大会を経験することができました。思い出せば、1年生の朝は、教室よりもまず部室に行き掃除、皮のセプター六面ボールを唾でピカピカに磨き(雨の翌日は悲惨)、グランドが改修(改悪?)されて硬いグランドに変わり、釘を打ちつけたトンボでグランドを掻くことも日課でした。それまでは砂浜のようなグランドでスパイクのポイントは減らなかったのですが、すぐに減るようになりました。釘で打ち付けるポイントだったので重い鉄の足形を持って試合や遠征に行くのが1年生の役目でした。ポイントは奥の堂の「九州スポーツ」で買い、破れたスパイクの修理はオーダーメイドした下川端綱場町の「東田靴店」に持っていきました。

夏合宿は柔道場に泊まり、名島の九電グランドで練習とOB戦を行いました。安川タクシーのマイクロバスで送り向かいされ、名島の九電グランドの門を抜けるとグランドと観客席の土手があり、グランドに誰もいないのを見るとホッとしたのですが、バスが着くと土手裏の日陰にいたOB先輩たちがゾロゾロ現れ、眩しいグランドの中で気持ちは真っ暗になりました。特にバリバリの社会人や大学生だった先輩方がありがたいことに仲の良い選手をたくさん連れてこられ、試合でOB連合軍からトライを取るまで終わらないという幸運な時間を過ごしました。あまりに早くトライを取ってしまうと、「今のトライは本当に良かった!」と褒められ、次に「忘れんうちにもう1本!?」と励ましの掛け声がかかり、なかなか終わりません。毎日の練習にはキャロルに乗って来られる新島清先輩、革靴のままスクラムを組まれる南川昌一郎先輩、ズボンの裾を靴下に入れたスパイク姿でバックスを指導される永江寿先輩、西日本新聞の旗を立てたタクシーで来られる村上令先輩方が入れ替わり立ち替わり来られて、今日は誰が来るのかドキドキのスリルある毎日でした。

我々の頃はまだ博多まで新幹線は通っていません。全国大会は博多駅から夜行列車で大阪に行き、鶴橋から近鉄で「あやめ池」の「桃山荘」に宿泊していました。12月28日の夕方、博多駅ホームに多くの関係者が集まり、応援団の激励、「千代原頭」斉唱、万歳の後、盛大にチームを送り出しました。1年生はチームメンバー兼雑用係の先発組と後発組に分かれていました。列車が見えなくなって、さあ帰ろうとしたところ、ポツンと革製長箱がホームに残っています。開会式で主将が持って入場行進する「県大会優勝旗」を誰も気づかず持って行くのを忘れていました。携帯電話のない時代です。恐る恐る後発に帯同される久和先生に報告し、翌日連絡をしてもらったところ、電話があるまで気づかなかったようです。優勝旗は無事開会式に間に合いました。この年国体で福岡が優勝していたので、一回戦の目黒高校との試合は実質の優勝決定戦と注目されていましたが、残念ながら敗れてしまいました。

2年生の時、前年の南川主将、豊山副将と多くの先輩たちが卒業され、橋爪先輩が新主将になりました。また、それまで長く部長を務めてこられた門田先生が筑紫丘高校に移動され、久和先生が新たな部長になられました。この年「創部50周年の記念式典」が行われました。春には「朝日新聞招待ラグビー」や「三地区対抗ラグビー」で社会人や学生の代表になられた先輩方が来られ、いつ終わるかわからないゲームが行われます。1年生の仕事からは解放されたものの、選手としての苦難が始まりました。5月に「沖縄復帰記念国体」があり、福岡、秋田、兵庫、沖縄の4チームが招待され、沖縄で初めてラグビーの大会が行われました。「めんそーれ」の歓迎の中、一回戦で秋田に敗れました。九州大会は福岡で行われ、高鍋に勝ち決勝で大分舞鶴に敗れ、全国大会は一回戦の函館工業には勝ったものの二回戦で雪辱を期していた目黒高校にまたしても敗れました。

3年生になって、東田主将を先頭に、まずは昨年九州大会で敗れた大分舞鶴を破るんだ!と意気込んで始動したのも束の間、春の新人戦で門田先生の筑紫丘に負け、最悪のスタートとなりました。愛車がマツダ「キャロル」から「シャンテ」に変わり、次にオレンジの「ファミリア」に変わった新島先輩(ニーしゃん)の「バックロー来い!」の声がかかると、恐怖のバックス対バックローのアタック・デフェンスが始まります。フロントファイブはバスケット体育館の前で延々とスクラムを組みます。危機感を持って練習に励み、九州大会予選を突破し福岡代表となったものの、宮崎で行われた九州大会では一回戦で大分舞鶴に敗れ、雪辱はなりませんでした。全国大会は福岡第一代表となり、開会式直後のゲームで岩手の黒沢尻北との対戦が決まりました。勝てば二回戦で春負けた大分舞鶴との対戦になっています。我々の頭には舞鶴の試合のことしか頭になかったのか、初戦の黒沢尻北に僅差で負け、その黒沢尻北も舞鶴に負け、この年大分舞鶴が初の全国優勝をしました。我々の努力は頂点に行き着きませんでしたが、この3年間は終生忘れられないものとなりました。

気がついたら我々も諸先輩方と同じように後輩を応援(鍛え?)に合宿に訪れ、ノスタルジックに浸りながら福高の勝敗に一喜一憂しています。365日同じような1年が100回続き、結果に違いこそあれ、そこで紡がれた信頼や逆境に打ち勝ちガムシャラに挑戦する気概と勇気は自己を超え人生の意味を見つけようとする真摯で高潔な福中・福高ラグビー魂を身につけさせてもらえたように思います。これが100年培われた福中・福岡高校ラグビー部の伝統なのだと思います。