寄稿 高校3回

ラグビー復活の頃

白井 善三郎

五十年の歴史を持つ名門福中・福高ラグビー部の一員であったことを私はたいへん誇りに思っております。というのは各年度のチームが常に目的に向って邁進し、その年なりにベストを尽し、勝利を勝ちとっているからです。そしてその裏には、部創設時の中園部長先生をはじめとする歴代部長先生、また諸先輩の御努力、御指導がありました。とくに戦後は新島先輩の熱心な好指導により、各部員は毎日々々の練習と真剣にとり組み、汗みどろの中で互いの信頼をつかみ、真の友情に裏打ちされたチームワークをつくりあげることができました。

それともう一つ母校福高が学問において、九州のいや日本の名門校であるということも私の誇りです。

さて、私が福中に入学したのは、敗戦も間近い昭和二十年の四月です。忘れもしない同年六月十九日米軍の爆撃により福岡市は一夜にして灰となったのです。 私の家も全焼致しました。間もなく広島、そして長崎に原爆が投下され、八月十五日、終戦をむかえました。

九月より二学期が始まり、そんな中でぼつぼつスポーツが復活したようでした。

翌二十一年の秋でしたか、戦後第一回の福中-修猷館の定期戦が九大グラウンドであり、応援に行きました。福中生として母校のラグビーの試合をそのとき初めて見ました。戦後復学(戦時中は軍隊に志願したもの、又工場動員等でほとんど学校に行ってなかった)してラグビーをはじめたもの、又当時米軍の政策により中止されていた柔道部、剣道部からかり出されたものばかりで経験も少なく、ルールもわからない選手が大多数のようでした。やがてキックオフのホイッスルが鳴りましたが、ボールが落下したとたん、ボールはそっちのけで両軍入り乱れてのなぐり合いが始まりました。レフェリーの修猷館OBが試合を中断され、数分間のきつい注意のあと、試合は再開されましたが、なすすべもなく福中は大敗致しました。それでも私達は上級生の応援団長の指揮に従い応援歌・校歌をうたい、試合に負けて並んで泣いている福中フィフティーンに、目がしらが熱くなる思いがしたのを今でも鮮明に思い起します。

この試合の無念さをかみしめて、このチームが、あの戦後の苦しい世情の中で、練習に練習を重ね翌年全国優勝の偉業を成しとげて福中福高ラグビー史を飾っていることは特筆すべきでしょう。

我々の仲間にもこの当時既に部員となり経験豊富な主将の山田章一君、副主将でファイター、卒業後明大主将としてまた全日本のフランカーとして活躍の松重君、強いタックルそして重量センター今橋君(旧姓渡)、駿足トライゲッター森田君、気はやさしくて力持ちのスクラムの安増君、インテリ風でとぼけた味の多田
君、頑張りやの萩谷君、セカンドロー松岡君(病死)、それにマイペースで大試合にあわてない臼井栄吉君等が同期です。

前年度は、全国大会優勝戦で秋田工業に惜敗しておりそのメンバーに参加した選手も数人残っており、かなりハイレベルにあったように思っております。また全校あげてラグビーが盛んで、体育の時間には、クラス対抗ゲーム等が盛んに行なわれておりました。

新島先輩も全九州の主将として若々しい活躍があり、毎日のようにグラウンドに来て御指導を頂いていました。

苦しい練習が終るといつものメンバーで、千代町の「ショウトク」というチャンポン屋に寄り、山田キャプテン以下ラグビー談義に花をさかせるのが、日課となり、ある時は戦略について、又ある時は戦術について話し合った楽しいひとときが今でも忘れられません。

今から考えると毎日が立派なラグビーのミーティングだったわけです。

それにしても母校福中福高ラグビー部が、半世紀の間、常に日本の高校の名門校として、その歴史を築き上げて来たことは、学校、先輩、現役の弛まぬ努力の賜であり、指導力だと思います。今や好敵手の修猷館ラグビーは凋落致しておりますが、学問においては福高を大きく凌いでいるようです。

現役の先生、そして現役の生徒諸君、学問もスポーツも負けないよう、そして青春に悔いが残らぬよう日々の精進と努力を切に御願い致します。 そして、いつまでもいつまでも私の誇りに思うラグビー部であってほしいと思います。

福高ラグビー部の益々の発展を御祈り申し上げます。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.160)

(白井善三郎・・・早稲田大ラグビー部監督、日本ラグビー協会専務理事を歴任)