寄稿 高校5回

最初の生タックル

麻生 静四郎

丁度一年生の時のこと同じクラスに木下憲一、柴田敏男両氏がいて、最近両氏に聞いた話では、小生が身体の大きい二人を勧誘したとのことで、小柄の小生が入部しているラグビー部ならと二人して入部したのか如何かは定かではないにしても、共に第七回仙台で行なわれた国体に優勝し、正月の全国大会で残念ながら宿
敵秋田工業に同点、反則が一つ多かっただけで敗退の涙をのんだのも、何にも勝る良き思い出として我々の語り草になっております。

当時昭和二十五年は、早明の全盛時代で、夏期の休暇になると隻腕の村上先輩を始め明大の土屋兄弟、福中初の全国制覇当時の諸先輩が大勢教えに来ておられ、小生等はすみの方でただただ脅威を感じている間に一年は過ぎてしまいました。

二年生になりやっと対外試合にも出してもらえるようになり、夏合宿を現在の平和台の上のラグビー専用グラウンドでやった頃から本当にラグビーをやってるという気になり、炎天下、赤土のガチガチのグラウンドで生タックルの練習をさせられたことなど昨日のことのように記憶しております。

従来行なっていたタックルの練習は五、六米はなれた位置より双方ゆっくり走って互いにあたる時だけカチッとあたって、肩のあて方、腕のしめかたを練習していたわけですが、一年上の平田先輩はこのタックルがきつく、だれもがこの平田先輩のあたり台になるのが嫌で、後で程度のわからない人だとブツブツとぼしたものでした。ところがこの夏合宿の生タックルというのは十米程離れたところから互いにフルスピードであたらせられるもので、一回一回軽い脳震盪を起しそのつど股にビフテキの数がふえ、もう涙が出そうになり、先輩の中、誰か一人ぐらいもう良いだろうと言ってくれないかと諸先輩が本当に鬼のように思えたものでした。

まあそのような経験があったからこそ三年生になりよい成績を修めることができたことと後になればその一つ一つが楽しい想い出になっております。我々メンバーはスクラムセンターに大坪氏、三列の真中に木下氏、サイドを長谷川氏、柴田主将と、ハーフを私、名スタンドオフの福丸氏がいたおかげで大変助かったしだいですが、両センターに定宗氏、森氏、 ウイングを駿足の高氏、フルバックに近藤氏と気の合った三年生が十人、絶大なる自信を以って九州を制覇、仙台の国体に挑んだわけですが、途中、東京にて二泊、明大八幡山の合宿にて練習マッチをしてもらい、約百名程いた明大ラグビー部の練習を観て感激。明大の第四軍か第五軍かと軽く試合をしてもらい、国体前の我々に手を抜いてくれたのか(?)互角に戦い明大の北島監督に良いチームだとほめられ、更に自信をつけて仙台の国体で初の優勝を勝得た次第です。優勝戦にて宿敵秋田工業に遂にトライを出来ずペナルティーゴールのみにて勝てたものの、正月の全国大会では逆に一つの反則の差で涙をのむ結果に終ったわけですが、国体の時とは逆に終始押しぎみで、秋田の重量フォワードをゴール前に釘付けにしてあと五〇糎程のスクラムが押切れず、なんであの時ボールを出してバックスにまわさなかったのかなと、今でも時折り頭に浮かび、懐かしんでいるものです。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.171)