寄稿 高校59回

お前、ラグビー部入れば?

岩見和哉

2005年3月。前年7月の玉龍旗を後に剣道部を卒業(逃亡)した私にとって、この上ない渡に船に思えた。だがその船は、とてつもなく航海が大変な船であることを入部後に知った。

時を戻して入学当初。隣の席のラグビー部が熱烈な勧誘を受ける様子を側から見ていた。
AM8:00から暑苦しい大男が席に座っており、勧誘というよりむしろ説得や話し合いに近い形で数日間の熱いアタックを受けて入部したのを目撃していた。部活が忙しく、らぐびーなんてもんがあるげな。当時はそれくらいの理解だった。

1年生の冬の体育で、申し訳程度のヘッドキャップを被り、ラグビーというものが始まった。こんなことがスポーツでいいのかというくらい荒々しい。その割にちゃんとフットボールの体裁を成していて行儀は良い。人をさんざんぶっ飛ばしておいて爽やかな顔で握手して終わる。不思議で、なんとも表現できない解放感で満たされた。
大賢人の言葉を借りれば、コペ転的な出来事だったと記憶している。

春休み期間中に入部をし、初めての練習日は走りの日だった。軍曹と呼んでいた、松井トレーナーによるフィジカルトレーニングが千代グラウンドで行われていた。グラウンドをコの字型に走るリレーのようなものをした記憶があるが、それ以上は記憶がない。苦しすぎて防衛のために脳が記憶から抹消してしまった。私は開始1時間も経たずに足腰が立たなくなった。いつもは教室でへらへらしている奴らが、顔を真っ赤にして走っている。
「こりゃとんでもないところに来た。」
率直な感想である。
ただ、逆にだからこそやりたいという生まれ持ったマゾヒズムが発動してしまった。それから私は入部したにも関わらず、1週間お休みを頂き、地元の山を走った。修行といえば、山だろうという少年漫画から着想を得た短絡的な行動だったが、1週間後に戻った時は、練習が少し楽になった気がした。

どうしてあそこまで本気になって走るのか、その理由は初めての練習試合で分かった。
走れないと仲間が助けられず、マイボーがヤンボーになってしまうのか、なるほど、同期に解説してもらいながら、走ることの大切さが分かった。
千代グラウンドで行っていた、ダンボールと言いながらボールを地面に置く行為、寝転んで遠くへボールを置く行為など、一体僕は何しよっちゃろと思いながら行っていた。それが全てつながった瞬間だった。

自分も試合に出てみたいと考えていた時に、指揮官が言ったことは、
「仲間のために死ぬ気で走り、体を張ってタックルさえできれば、試合に出してやる。」
面白い。その言葉を聞いて、自分の中でたぎるものがあった。
前置きが長くなったが、そこからようやく自分の中でラグビーが始まったと思う。

練習はとにかくきつかった。ただ、苦しい先に楽になる瞬間があり、松井軍曹をはじめトレーナーさんたちも鼓舞しながらそこまで連れて行ってくれた。愛を持っていじめ抜いてくださったおかげで福高は走り負けするということはなかった。自分もフランカーとなり、とにかく走り込んでタックルするという練習を繰り返した。
その時の郷原コーチの教えが忘れられない。
「タックルが上手くなりたければ、常日頃生活の中でラグビーをしろ」
具体的には、道を歩いている時にすれ違う歩行者全員に(頭の中で)タックルしろということであった。接近してくる人との間合いを考えながら、タックルしながら暮らすのは当初容易ではなかったが、慣れてくるとそこらへんのサラリーマンにタックルをし、起き上がってジャッカルからノットリもしていた。(※ 頭の中で)
話は変わり、チームの体制は、牟田口先生が部長で、森さんが監督であった。
牟田口先生は擬音語が多く「ドカドカドカァーっといけ、バァーンと入れ」といったように、ラグビー経験者ではない私にとってわかりやすい表現で伝えて頂いて本当にわかりやすかった。オーバーするときにバァーンと自然と口ずさんで入っていた。
森監督は冗談が90%、大切な言葉が10%というぐらいの比率でご指導いただいたと記憶しているが、もっと冗談の割合が多かったのではないかと思う。ただ10%の言葉の中に、人生の岐路で思い出す言葉をたくさん残してくださった。

チームの戦績といえば、3年生の新人戦で修猷館を破り、ベスト4に入ることができた。
そして、全国選抜大会に出ることができ、深谷高校に負けはしたものの、三本木農業に勝つことができた。表面的な情報だけでは私は福高ラグビー部での出来事を語り尽くすことはできない。ただ、今でも仲間と思い出話を夜通し話すことができる自信がある。

百周年を迎える部でラグビーをできたことは本当に財産です。
福高ラグビー部永遠なれ!