保護者による対談
テーマ「保護者から見た福高ラグビー部」
森夫妻×島夫妻×松下夫妻
進行)深田幸三さん(高50回)
福岡高ラグビー部に我が子が入部し、ともに時間を過ごした3夫婦の対談が7月27日、福岡市内で開かれた。創部100周年記念事業の対談の第2弾で、森恍次郎さんと純子さん、島文雄さんと恭子さん、松下克弘さんと晴美さんの3組の夫婦が参加。顧問の深田幸三さん(高50回)がコーディネーターを務め、福高ラグビー部の印象や思い出について話を聞いた。
森さん一家は、次男英俊さん(高44回)、三男正俊さん(高46回)、四男伸明さん(高49回)の3人が入部した。正俊さんの長男は現役の3年生の洸志郎さんで、副将としてチームを率いる。
島さん一家は、長女くるみさん(高52回)がマネジャーを務め、長男正太郎さん(高54回)と次男弘一郎さん(高56回)が部でプレーした。
松下さん一家は長男雄一さん(高56回)、次男隆三さん(高59回)、三男彰吾さん(高61回)、四男真七郎さん(高63回)の4人が部に所属した。
―福高ラグビー部での想い出を教えてください。
森恍次郎さん
「僕も福高生やったけど、そのときはラグビー部は嫌いやったですね(笑)。今はもちろん大好きですよ。当時の部員は、だいたい授業中に寝とうわけですよ。真面目な学校やと思ったけど、だらくさやなーって思って。息子たちがラグビー部にお世話になるとは思ってもみなかった」
「うちの長男が小児ぜんそくになって、お医者さんから『少年サッカーかラグビーに入れて泥んこにさせなさい』と。それで草ケ江ヤングラガーズに縁があって、わらにもすがる思いで入れた。福高では長男は吹奏楽部に入ったけど、次男、三男、四男がラグビー部に入部した」
「喜怒哀楽が面白い」島父
島文雄さん
「私もラグビーが好きで、息子たちに絶対させたいって思いがあった。長男も次男も、(福高OBたちが指導する)ぎんなんリトルラガーズで育ててもらって、福高に入ってくれた。喜怒哀楽があるチームで、いつも面白いなと思って、みていましたね」
「森(重隆、当時の監督)さんの家で、保護者も一緒にバーベキューとかあって、楽しかったですね。ある試合で敗れた後の食事会では、部員がみんなキャッキャッ言っていたら、森さんが「お前らは悔しくないとか」って。そのへんのところが面白くて」
島恭子さん
「子どもや保護者たちで同じ時間を共有できた。悔しい思いをしたり、一緒に応援したり。あの時間が今から振り返ったら、とっても貴重だったと思う」
松下晴美さん
「我が家は、ラグビー部に4人お世話になりました。次男は(2006年度の)全国選抜大会にチャレンジ枠で出場してくれた。(2010年度の全国高校ラグビー大会は)90回記念で福岡県代表が2枠あって、四男が県大会決勝で筑紫に勝って花園に連れて行ってくれた。女の子がほしかったが、花園にいったときは4番目が息子でよかったと思いました」
松下克弘さん
「僕は福高28回生で、みんなから言われたのは、とにかく福高に行ってラグビーせれって。春休みにはラグビーボールを買って、幼なじみと練習していた。でも母親が『ラグビーだけはやめとき』と。入らなかった、入れなかった。そういう意味で、子どもたちにはラグビーしてほしいなって」
「子どもたちはぎんなんリトルラガーズにお世話になった。福高の試合をみにいったとき、ぎんなんにいた三男がいなくなった。探したら、福高の応援団の横に並んで応援してた。小学生か中学生のときには、もう応援歌とか校歌とか全部覚えていた。長男が福高でラグビー部に入って、次男も三男も四男も入部した」
―保護者として、ご苦労はなかったですか。
森純子さん
「苦労はないですね。楽しかった想い出の方が多くて。しっかり食べさせて太らせて。お肉もキロ単位で買って、野菜も並みじゃないですから。お店の方には寮母さんと間違えられてた。『奥さん領収書は』とか言われて。歯を食いしばってハンバーグをつくっていた。ご飯できて『さあ、どうぞ』ってときは、もう口が動かない。苦労よりも楽しかった。母親としての充実感、懐かしいです、今」
「あの頃は、とにかく毎日、元気で帰ってきてほしい、そういう気持ちですよね。子どもが元気でラグビーして、帰ってくるってだけで、大満足だった」
「子どもたちが高校を卒業して、一人家を出て、二人出て、三人出て。四男が出て、家がからっぽになったとき、部屋にいって彼の机をみて、わーって涙があふれて号泣した。やっぱり母親ってこういうもんかなって。楽になったとか全然なくて。抜けました。からっぽになった」
島恭子さん
「森さんと一緒で、ご飯。米が1カ月で50キロ。5キロが3日でなくなる状態で、どんどんお米を買わないといけなくて。米屋さんもびっくりして『台帳つくりましょう』と。1カ月分まとめてお金を払うようになりました」
「それから洗濯。ジャージーなどに砂がたくさんついていると思わないで、ぼんぼん洗濯機にいれてたら、壊れてしまって。それから、息子には福高の水道で、練習後に洗って持って帰るようにしてもらった。とにかく凄い量だった。それがお母さんとしての思い出です」
松下晴美さん
「子どもと一緒に楽しませてもらった。長男が福高に入って、親子ともに毎日毎日が新鮮だった。子どもが言うことは全て『分かった、そうする』とやっていた。1年生のときに部室の鍵当番というのがあって、先輩が来る前に鍵を開けないといけない。須恵に住んでいるので始発でも間に合わない。当番の1週間は学校まで車で送っていた記憶がある。次男のときには、もう当番がなくて。4人が通う中で部も変わっていった」
松下克弘さん
「あんまり苦労はしてないけど、強いて言えば怪我が多かったですから。次男が3年生の地区予選かなんかで足をけがをした。森重隆さんが『久留米医大に酸素カプセルある』と。効果があるかもと2週間ぐらい、仕事を早めに切り上げて、高速道路を使って久留米医大に行っていた。酸素カプセルは1時間から2時間くらいかかる。毎日、久留米医大に通った記憶ある」
―福高ラグビーの魅力は何でしょう。
「生き方を培われた」森母
森純子さん
「創部90周年や今回の100周年事業もあって、次男、三男、四男の3人が子どもたち同士で、いろいろ話している。自分のためでなく、福高ラグビー部のため、後輩のため。そういう精神が自然に培われている。素晴らしい先輩方のおかげで、人として大切な生き方を身につけることができたと感謝しております」
「福高が花園に行ったとき、私たちも行った。みんなでワイワイ言って。ラグビーが好きな人ばかりと思うと、ものすごく幸せな気持ちで。怪我するとか、いろいろありますけども。そういう心配ごとを別にして、ラグビーによって得られるものが、はるかに、はるかに親も子どもたちも大きいんだなと思って。子どもたちが福高ラグビー部に入ってくれて感謝しています」
「仲間意識育まれて」森父
森恍次郎さん
「長男だけは福高で吹奏楽部に入って、今もアメリカでプロとして吹いていますけど、たまに日本に帰ってきたら、息子たち4人で夜遅くまで仲良く過ごしている。オール・フォワ・ワン、ワン・フォア・オールの精神。これもラグビーのおかげかなと思っています」
島文雄さん
「私が印象に残っているのは、阿蘇での夏合宿での紅白戦だったか。誰かがゴール下でセービングにいかないかんときに、いかんかった。度胸なかったのか分からないけど、そのときに森さんがえらい怒って。もうちょっと男らしゅうっていうますかね。ラガーマンかどうかの前に、男じゃないぞって。しっかりやれ!って言っておられるように見えて、遠くだったから、なんて言っておられたのかわからなかったけど、印象に残って。ああ、いいなーって思った、つくづくね」
「ひたむきさ原点に」島母
島恭子さん
「福高ラグビー部の泥くささがすごく好きだった。うちの長男はどんくさかったけど、ひたすらにやっていた。もちろん上手な子もいる、足の速い子もいる。その中で一人ひとりがチームために頑張っている。ひたすら食らいついている。その泥くささに目が覚めるような想いでして、新鮮だなーって思って」
「それと、皆さんが福高ラグビー部にかけてくださるお気持ち。いろんな方の気持ちの上で、あの時代が、青春のあの3年間があったんだって。ありがたいことって当然、子どもたちも分かっていると思う。子どもたちも大きくなって、いろんなことがあると思うけど、何かある度に、ひたむきさを原点にしてほしい」
「子も親も変われる」松下母
松下晴美さん
「息子が4人いたので、10年間、福高ラグビー部にお世話になった。子どもが好きでラグビー部に入っても、保護者の方が全員賛成しているわけじゃないんです。せっかく福高に入ったのに勉強しないで、こんなことしなくていいだろうって言う方もいらっしゃるようです。反対する親に練習着を買うのを言い出せない子もいて、先輩たちが自分のを分けてくれていました」
「そのころ、森さんが言われていたのが『見よってんやい。3年おる間に親が変わるけん』って。親から反対されながらも、子どもが一生懸命頑張っていると、卒業するころには親もはまっていた。そういう人たちを何人かみてきた。やっぱり福高ラグビー部って、子どもも もちろんですが。親も変われる。そういう魅力ある部だと思います」
「人間の基本を教育」松下父
松下克弘さん
「(当時部長の)牟田口(享司)先生が卒部式で言ったのは『自分は福高ラグビー部出身ですっていっても、それだけで世の中通用すると思ったら大間違いぞ』と。『自分の力で立派な社会人になっていかないかんちゃから、福高ラグビー部におったというのは自分の心の中に閉じ込め、この苦労をこれからの糧にせないかなん』。すごくいいことを言われていた」
「福高のラグビーといえば、きついとか苦しいとか言わず、けがを恐れずにチームのためにタックルする。(監督を長年務めた)新島清さんの『身を殺して仁を為す』という言葉がある。その理念とか価値観とかっていうのは、自分たちの子育ての基本にぴったりだった。森さんにも牟田口先生にも、これから社会にでらないかん、大人になっていかないかんという中で、人間として基本的な部分を教えていただいたなと。感謝です」