雜感
広田 哲夫
時の流れは早いもので、私が福高を卒業してもうかれこれ二十年にもなろうとしている。
別に特別の理由もなくラグビー部に入り三ヵ年、自分なりに考えて、真面目に練習に励んだと思っているのだが、そのラグビー部に入部したことが、その後の人生に大きく貢献していることを痛感し、また感謝している。
真夏の暑い日も、真冬のみぞれの降る日も、練習と試合に自分の青春をぶっつけたあの頃のことが、いつまでも走馬燈のように生活や仕事の折りおりに思い出される。
高校時代に経験した福高(旧福中) 精神やラグビー精神が現在の自分の人生観に多大の影響を与えたことは否定できない。これらはもちろん自分一人の力で得られるものではなく、多くの先輩諸兄、恩師、友人それに後輩のみなさんのおかげであると感謝している。
特に自分が現在、高校教師のはしくれとして、またラグビーを指導する立場の一人として、当時の福高の教師、生徒のラグビー部に対する雰囲気、応援は、今では考えられないほど良いものであったと思う。これもまた先輩の努力と栄光のたまものであったと思う。
ラグビー部に入ったおかげで、全国大会や国体に出場する機会に恵まれたことはもちろん、全国大会優勝という記念すべき時に、補欠ではあったが、西宮のグラウンドで応援できたことは非常な幸運であり、貴重な経験をさせてもらったものだと思っている。
優勝したメンバーの中には、当時一年生であった同級生(植木、行徳)も出場しており、彼等をうらやましく思ったことも今はなつかしく思い出される。同級生(高校八回卒)のメンバーは植木史朗(主将)、梅津幸弘、行徳大史、小林一元、難波良三、山下忠男、久恒国雄、鶴田啓祐と、私の九名で、全員卒業まで頑張った。
忘れられないのは途中で退部した寺崎である。彼は一年の時、私と同じクラスで倉富先生の担任であったが、なかなかの快男児で、いつもいかにして練習をさぼるかを考えていた。私も一緒になって大丸デパートに遊びに行ったことをなつかしく思い出す。彼はその後亡くなったと聞いた。冥福を祈る。
例にもれず、練習では福中精神の美名のもとに情けようしゃもなく鍛われたが、いままず思い出されるのは夏合宿をはじめて校外でやった三年のときのことである。
大牟田市内のお寺に泊りこみ、三井染料のラグビー部を相手に、毎日試合でしばられた。いくら練習時間が過ぎても「トライをするまで試合は終わらんぞ」という先輩の声でただがむしゃらにボールを持って、前に突っこんでいった。
また試合が終わった後のナマタックルの痛かったことや、炎天下、お寺からグラウンドへ行く道の遠くていやらしかったことを今でも思い出す。実力がつき、チームワークもうまくいき国体予選では予想をくつがえして修猷館を破り国体に出場することができた。
今思い出しても恥ずかしいのは、全国大会予選決勝で福岡工に敗れたことである。当然勝てると思っていたのが気のゆるみにつながり、決勝で敗れて、全国大会に出場できなかった。上級生として責任を痛感している。
同級生もその後、それぞれが社会人として立派に活躍しており、特に全日本に植木が選ばれ、山下がリコーの監督として全国制覇をなし遂げたことは、同級生としてうれしいかぎりである。また梅津のようにクラブチームで歳も考えずに張り切って試合に出ているものもいる。不惑四十に手の届く現在、それぞれ社会の第一線で活躍し、それぞれが福高時代の苦しく楽しい思い出と、母校ラグビー部の限りない発展を心から祈っておることと思う。
(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.194)