寄稿 中学8回

イザという時

内山宮三

私は福中ラグビー部の三代目のスクラムハーフであった。 初代が吉村順之氏で、二代目が吉田耕之助氏、共に名ハーフの誉まれ高い方々であった。

本世紀初頭に活躍した全英国軍の名ハーフ、スミスは生涯中一度も自らはトライしなかったが、初代吉村氏もスミス型のハーフで、“Always on the ball” を常に実行し、球ある処に常に彼氏があり、球に身を挺して守り、攻撃には必ずバックアップして、思わぬチャンスを開かれた。 二代目吉田氏は気性烈しく、ブレイクアップ寸前のスクラムの上を乗り越えて自らトライをせられたこともあった。こういう名手に手を取って教えられた三代目の私であるが、内田仁氏を中心とする超強力メンバーの時代であるので、万年第二軍のハーフとして、隣りにあった福商や、修猷等と練習試合をこととしていた。当時福商チームのハーフに占部君という好敵手がおられたことを思い出す。

四年生の時、学友会誌の編集長をしておられた吉田耕之助氏の命令により、ラグビー部の後輩に苦言を呈する一文を校友会誌に書かせられ、さぞ後輩に憎まれたことと思うが、同氏のみならず吉田俊雄氏からまで激励のおハガキを頂き自ら慰めたことであった。 三年の時分に戦略家中園先生より一同に 「首席なんてものは一度なれば良いのであって、あとは運動どもして体を作り、イザという時にその実力を見せれば良いのだ」と教えられた。一同この旨を体し四年生期末の上級学校受験の初陣を「イザという時」として血気にはやり、レギュラーとなるべき人員の中から六名も四年修了で准卒となってしまい、陸上競技部その他にまであとのことで御迷惑をお掛けした。当時、各回カットや飾り文字で始まる羊皮表紙の豪華なラグビー部史があり、初代は確か岩岡太郎氏、次代は吉田耕之助氏、三代目は私が記載した。今いずくにありや。

  

※高15回内山健三氏の父 親子2代で福中・福高ラグビー部

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P30)