寄稿 中学9回

くさぐさのこと

松隈保

私たち第9回卒の選手の大半は、支那事変や大東亜戦争で斃れたり、あるいは病死されたりで、現存しているのは竹下静夫君、小山一義君、それに小生の三人だけです。

当時は福中、修猷、福商が三つ巴の形で覇を競っておりましたが、幸いにも九州大会で優勝し晴れの甲子園に駒を進めることができました。しかしその時は一回戦で優勝候補の京城師範に当たり20-0で惨敗を喫する有様で、全国にその名を轟かせるといった活躍はありませんでした。

その後第9回卒のうち渡辺周一君と永沼茂之君と小生の三人が相前後して明大に進学、その後も10回卒の本多君、11回卒の津田君、12回卒の池田君、13回卒の斉藤君らが続き、共におもいでの和泉グラウンドで研鑽を積み、しだいに明大一軍選手としてその中核を占めるようになってきました。関東六大学対抗戦では関西の雄 京大、同大と対戦、縦横の活躍を見せるようになりました。こうして明大ラグビーの名声が高まるにつれ、明大ルートの開拓のためにも母校福中ラグビー部を育成強化する必要がありました。福中ラグビー部が以後幾多の名選手を輩出しえた理由の一つには、こんなことも与って力となったものと思います。私たち第九回生は、福中時代には残すべき何物もありませんでしたが、卒業後は母校ラグビー発揚のためにいささかの寄与をなしえたことを心秘かに自負いたしております。

さて、当時福中の校舎が焼失するという事件がありましたが、スポーツクラブの面々にとって最大の障害はグラウンドをどうするかという問題でした。いわばジプシーみたいにグラウンドを探してさまよい歩く毎日でした。しかし、たとえグラウンドがなくとも強いものはどんな条件の下でも強いものです。 たとえば、他部のことになりますが、 陸上競技部の場合、 福中陸上部創設以来の充実ぶりで、優秀選手を多数輩出するほど選手層の厚さを見せておりました。たとえば出場選手の選抜の際など、故松岡先生と意見の衝突を見るといった具合でした。種々の競技会に出ても必ずといっていいほど優秀な成績を収め、県下にその名声を轟かしておりました。ちょうどその頃、ラグビー部は五年生主体のチームで、九州代表権を競う優勝戦で修猷館に惜敗するということがありました。悲憤やるかたなく悶々としているところへ、その陸上部の駿足部員小山、永沼、安永、竹下君等々が豪快なラグビーの魅力にとり憑かれラグビー部に入部を申しこんできました。かくして以後は陸上とラグビーを両立させる練習が開始されることになりましたが、両手かけもちの選手のスケジュールにグラウンドの問題が絡み、ラグビー部主将である渡辺周一君と陸上部主将ラグビー部副主将である小生とが何度もぶつかったこともありました。

なお、最後に福中・福高ラグビー部をして今日の確固たる地位を築かしめた影の恩人北島忠治、三宅良一両先輩に対し深甚の敬意を表します。
以下当時の部員の横顔をかんたんにスケッチしてみます。

渡辺周一君 — 志操堅固、勤勉実直、学業優秀にして一軍を統率するに最適の主将。福中一明大に学び、明大全盛時代の名選手。関東代表 全日本にも選ばれる。 卒業の年、夏季休暇母校にてコーチの折、負傷したのが因で破傷風にて急逝。

永沼茂之君 — 陸上部出身で四百メートル、千六百メートルリレーメンバー。 四年後期入部、福中明大に学び下積み四年。 最高学年にレギュラーとなり派手なところのない堅実な技巧の持主。関東代表選手に選抜される。 大東亜戦にて戦死。

安永儀一君 — 陸上部出身で百メートル、二百メートル、短距離選手。福中―早大に進学、福中出身部員皆無のため退部。大東亜戦にて戦死。

田原正君 — 真面目な紅顔の美少年で生っ粋のラグビー部員。四年生で陸上部入部、 ハードル選手として活躍。 確実なタックル、キックの名人。 久留米医大入学、在学中病死。

後藤貞武君 – バスケット部出身。福中久留米医大。久医在学中もラグビー選手として活躍、猛牛の後藤で有名。死亡。

古館勝義君 — 柔道部出身で夏の柔道大会終了後入部。 ラグビーより柔道の選手として有名。死亡。

竹下静夫君 – 陸上部出身で二百メートル、八百メートルリレーメンバー。 駿足FWとして活躍。卒業後警察入り。豊前、若松署長を歴任し、現在松下電気福岡営業所勤務。

小山一義君 — 陸上部出身。幅飛び、三段飛びで全国大会で優勝。駿足のトライゲッター。 早大 明大と学び競技は中止。 住吉うなぎの主人で有名。

小石博喜君 – 中学時代はバスケット主将として全国大会優勝。八幡製鉄入社後ラグビーに転じ実業団大会、各試合で大活躍した。住所不詳。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.33)