寄稿 中学25回

「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」に中学25回生の寄稿が掲載されておりませんでしたので、この年の印象的なできごと「戦後復活第1回目の試合」について記述してある部分を抜き出し、当回の寄稿とさせていただきます。

戦後復活1回目の試合

<P134 「部再建へ 中学26回西村強三」より>

終戦の年の秋、九大グランドで修猷館と試合した。初めての対外試合であった。試合前、活気鋭意のOBから大いに気合を入れられた。キックオフ。ボールは飛んだが、あちこちで異様な光景が起こった。組んずほぐれつの乱闘である。制笛一声。全員グランドに正座させられて、レフェリーの大目玉を喰らった。ただ終わりに「この気合はよろしい。忘れるな」といわれた。

<P137「中学27回生座談会」より>

このようにして部員は集まり、福中ラグビー部は復活し、戦時中とだえていた宿敵修猷館との対抗戦が、秋九大工学部グラウンドにおいて行われた。しかしこの試合たるや全く散々であった。1.2か月の練習でルールもほとんど知らず、スクラムも満足に組めず、相手を殴っても蹴飛ばしても、ボールをゴールに持っていけと闘球精神そのままで出場した我がチームは、キックオフと同時に修猷館選手を投げ飛ばし、それがきっかけで大乱闘になり、審判より一時ゲーム中止し大叱責を受け、その後ゲーム続行するも大惨敗。麻生は脳震盪で倒れた。

<P145 修猷館OBの回想「戦後最初の対福中戦 中田主基」より>

昭和二十年十一月戦後最初の福中対修猷の試合が九大工学部グラウンドで行なわれた。試合は福中のキックオフで開始され、そのボールを取って突進した修猷の野崎選手を福中のフォワードが乱打するという現在では考えられない事態が起り、当日の審判広田久次郎氏が驚いて両軍を集め、こんこんと注意されたが、戦後の時代を反映するような試合であった。

<P146 「焦土の中全国制覇を果たす 高校2回加藤孟」より>

昭和二十年八月十五日、予想もしなかった敗戦。九月十日、授業が始まるとともに、学徒動員先や軍需工場から、又、陸、海、空軍へ志願して行っていた友人達も元気に帰って来た。

敗戦による心のむなしさのためか、負けたのではない、負けるもんか、と兵隊帰り、動員帰りの部員達は、他の部よりもいち早く部の復活を図った。進駐軍の命により柔道、剣道等の部活動禁止の為、両部より多数の猛者が入部、参加した。

早速練習開始。終戦直後で物資不足、食糧難時代、ユニフォーム、パンツ、スパイク等なく鶏 (素足) 練習、素足でプレースキック、雨の日の水を吸った重い球をキック、パント、ドリブルとよく練習できていたものと思う。ボールも戦前使っていたものを部室の隅からひっぱり出してきたもの、先輩から貰ったもの等で、楕円球じゃなく、丸くふくらんだバスケットボールのような球で練習した。

「練習ばっかしじゃ面白うなかばい、一遍試合してみろうや!」ということで十一月中旬、九大工学部グラウンドにて修猷館と対戦した。練習期間も短く、まだラグビーそのものもわからぬまま試合、「ボールが来たら、一歩でも二歩でも前に行け。走れ。敵がボールを持ったらくらしやい」と先輩がちらっと冗談まじりにいった言葉が頭にあったのだろう。福中キックオフ。 修猷がボールを取って突進すると、タックルを忘れ、一人がポカリと手を出し、それにつられて皆集まり、ポカ、ポカ。笛が鳴り、レフェリーより大目玉、でこの試合は負け(福中0-23修猷)。とんだお笑いであった。