寄稿 高校3回

福中、福高ラグビー部の思い出

白井 善三郎

私が旧制福岡県立福岡中学に入学した年は、第二次世界大戦の終盤で日本の敗色が濃い昭和20年(1945年)4月でした。学校には上級生(2年生から5年生)は、いませんでした。当時若い男性は軍隊に召集され、労働力不足の為、生徒が動員され勤労奉仕で工場で働いていました。連日の米軍の空襲で日本は、戦戦恐恐の時代でした。同年6月19日福岡市は、焼夷弾による爆撃をうけ、一夜にして焼け野原となり、そのあと広島、長崎と相次いだ原子爆弾により終戦となりました。

不安の中での二学期でしたが上級生も戻り又志願して軍隊に入隊していた生徒も復学して、戦後教育が始まりました。と同時にスポーツも復活し、なかでもラグビー部の活動は早かったです。間もなく福中、修猷の戦後初の定期戦が、九大工学部のグラウンドで行われました。

両軍の応援団が見守るなかキックオフ直後の密集で両軍の乱闘があり、すぐにレフリーがゲームを中断し、長い訓示の後に再開されたその後はラフプレーもなく終わったが修猷の勝利となり福中は涙を呑んだ。試合後、応援団の前に表れた選手は、校歌や部歌千代原頭の応援歌に俯き涙する選手もいて、試合には負けたが、ラグビーに接しその魅力に感動した。

旧制中学全国大会は、第25回大会が昭和17年度まで行われ、福中は決勝戦で天王寺中に6対0で惜敗した。その後、戦争は激しさを増し昭和21年まで中止とった。その復活の第26回大会で福中が全国大会優勝を成し遂げた。

昭和22年1月西宮球技場に於て、西村強三主将、闘将宮下正義のフランカー、土屋英明、麻生純三のハーフ団を中心に全員ラグビーで同志社中、前回優勝の天王寺中を破り決勝では神戸二中を6対0で優勝を決めた。敗戦により打ち拉がれ、衣、食、住、凡てに貧しかった時代に、市民そして全校生徒に勇気と感動を与えました。

復活の修猷との対戦に負け、わずか1年余りでの偉業は見事でした。

当時占領軍の命令で、柔道、剣道は禁止されており、柔道部の生徒がラグビー部に参加して活躍していました。同じ格闘技で体力のある柔道部のラグビー部への転向はラグビー部に於ては大変助けられたと思います。優勝メンバーにも柔道経験者も参加していました。この優勝を契機にスポーツが盛んになりました。ラグビーの他にもバスケット、テニス、ボクシング、バレーボール、水泳等活発に各部が活動した。体育の花田、平山両先生が就任されてから体育の時間にラグビーの授業もあり、又クラス対抗戦等もあり、戦時には考えられなかった楽しい時間でした。

そもそも福中ラグビー部の創部は大正13年(1923年)に中園淳太郎先生の号令で始まりました。九州の中学校では一番の歴史があります。因みに第1回大会は大正7年(1918年)1月に開始されました。当時は、ラグビーを実施している学校も少なく、4校のトーナメントで、面も、全同志社、旧制三高、全慶応、京都一商の4校の組み合わせで、全同志社が第1回の優勝校となった。其の後も関西中心の大会が続き、関東、九州も参加した。中学校の全国大会は、第9回大会大正15年(1926年)1月の大会からです。福中はこの大会から九州代表として初出場しています。残念ながら1回戦で、天王寺中に負けましたが、戦前の出場回数は14回で九州に福中ありという伝統校の礎を作りました。そしてライバル校の修猷館は創部が1年後の大正14年で11回大会に出場しています。

さて私は早く入部を希望していましたが、2人の兄が終戦後も帰国出来ず、シベリアに抑留され音信不通となって帰って来ませんでした。終戦後3年をすぎた頃ひょっこり次男が帰国し戦前父が経営していた博多水たき新三浦の再建に取り組みました。全焼した店の0からの出発でした。私も学校が終われば店の手伝いをしていて時間がとれず、ようやく高校2年の終わりにラグビー部に入部し、新チームの12番を命ぜられました。前年度29回大会で準優勝したチームから、主力が10名卒業しましたが、新主将の山田章一、副主将松重正明、プロップの安増武、快速ウイング森田義光、スクラムハーフの今泉清志が新メンバーの要となり春の新人戦で勝ち、国体予選の九州大会も全勝で、名古屋国体に出場ベスト4まで進んだが四条畷に敗れました。続く全国大会予選は当時最強の小倉高に勝って、決勝で嘉穂に負け、全国大会出場をのがした。

あっとゆう間の短い期間であったが、私の人生の大事な一年間となった。

この時代に御指導を戴いた部長の小野次敏先生、監督の新島清先輩には感謝致します。

新島清先輩は戦後の福中、福高ラグビー部を長く育てて戴きました。ご自身も日本を代表する選手として活躍され、指導者としても実績を残し、多くの名選手を育て日本ラグビーに多大の貢献をされました。

申し遅れましたが、私が中学3年の昭和23年(1948年)学校制度改革があり、中学大会が昭和24年(1949年)より高校大会となりました。

高校大会になってからも、第29回、第32回と出場し第33回で再び優勝し、福高ラグビーの名声を高めました。

この様にラグビーの伝統が次々と継承されていくのは、いつの時代も学校の御理解、歴代部長先生の熱意、現場を預かる監督、コーチ、指導者にめぐまれていて、OB会のサポートもあり、そして家族の理解と応援があったからだと思います。

最近はラグビーも早い人は幼少から始めます。ラグビースクール、中学ラグビーも盛んで、私立校では優秀な人材確保に力を入れています。トレーニングの環境も変わって来ました。色々なものがプロ化していくなかで、厳しい時代だと思いますが、ラグビーは格闘技でもあり、インテリジェンスも必要な競技です。現役部員の皆様には福高生らしく戦って下さい。先輩を見習い追い付き追い越して、不可能を可能にする努力が大切です。そして新たな歴史を作って下さい。

現に福岡堅樹君がいます。7人制ですが、リオオリンピックで、ニュージーランドを破り4位入賞、その後日本代表のウェールズ戦ではアウェーのカーディフ、プリンシパリティスタジアムに於いて7万3千余の観衆の前での熱戦で11点差を4点差まで迫る貴重なトライを福岡がとり30対30まで追いついたが終了間際に相手スタンドオフのドロップゴールで3点差で負け金星は逃しましたが、日本代表のトライゲッターとして大活躍でした。そして2019年日本でのラグビーワールドカップ。2020年東京オリンピックにも期待されています。そんな彼の目標は医学を学びドクターになることと聞き嬉しいかぎりです。

福岡高校、福高ラグビー部の益々の発展を祈念致します。

(平成29年発行「福中・福高 100周年史」P.79~81)

(白井善三郎・・・早稲田大ラグビー部監督、日本ラグビー協会専務理事を歴任)