寄稿 高52回

福岡高校ラグビー部100周年にあたっての寄稿

藤賢二郎

高校ラグビー時代の思い出といえば、ひとつ上の兄貴からバトンタッチを受け、最上級生として臨んだ、春の新人戦で東福岡と対戦したその日、試合終盤になり、攻め込まれたゴール前でウイングの宮本がタックルにいった際に、脳震盪で倒れた。いつも通り後輩がバケツの水をかけると思いきや、突然大きなイビキ声が聞こえ、当時チームドクターである新原先生がかけつけ、異常事態だと判断をし、そのまま救急車で病院に運ばれた。

試合後、事態は思った以上に深刻で、頭蓋骨を開口するという緊急手術が必要になったと聞かされた。当時高校生だった私は、事態の深刻さがいまいちわかっていなかった。

術後、数日が経ち、お見舞いに行くと、包帯ぐるぐる巻の痛々しい姿の宮本がいた。
横にいた母ちゃんは、元気にしていた記憶がある。

またその夏、一個下の松瀬が、頚椎の骨を試合中に負傷し、それも入院期間が長く必要で、当時、東大か京大を目指す優秀なロックだっただけに、申し訳ない気持ちで一杯になった。
自身も主将になったばかりの試合で二回目の鎖骨を折り、チームにとっても怪我が絶えない高校最後の一年だった。

そんな中、大手術ののち、無事に命をとりとめた宮本直也が、一年のリハビリを終え、最後の秋の大会から復活したいと言い出した。

その当時の自分には、その事のリスクや、大事さがあまり理解できていなかったと思う。
但し今、自分も42歳となり、親となった今、自分の子供をまたグランドに送りだす両親の気持ちは理解できる。当時、宮本本人も含めて「一体何がそうさせたのか」を、大人になっても、たまに考える時がある。

親父と兄貴に誘われ、そして早稲田で活躍する浩太郎さんにも憧れをいだき、福高に入学をして、郷原さんの時代にはニュージーランドの遠征という貴重な機会にも恵まれ、一個上に兄貴もいたので、八尋さんや西村さんにもいろいろ可愛がって頂いた。

また、家に戻っては、今は亡き木原さんや新原先生が、試合が終わったあとによく家に来て、
その日の試合のどこが良かった、どこが悪かったなどの指導を受けることが日常茶飯事だった。

また公私に渡り、森さん、豊山さん、藤先生や畑井先生をはじめ多くの先輩方から、技術面そして精神面での教育、指導をしていただいた。
校舎内での授業は一切記憶にないが、ことラグビーに関しては、こんな贅沢な時間は後先なく、貴重な時間を過ごしていたと今になって思う。

秋の大会、初戦、対修猷館の高校選抜のNO8が、非常に手強い相手だったが、宮本が立て続けに決めるゴールキック、奇跡の復活にも後押しされた僕らは、蓋を開けてみれば快勝だった。その後も順調に勝ち上がったが、準決勝で東筑に完敗し、僕らの高校ラグビーは終わった。

先程の、宮本直也の何が彼自身を奮い立たせ、親に勇気を与え、もう一度、僕らと一緒に戦おうと思ったのかという自問だが、17年、中国で半生を過ごしてきた自分にとって一つの回答がでてきた。
それは世代を超えた精神面での絆の強さだと思う。

中国は、家族同士の絆は、日本よりも圧倒的に強く、私自身も中国人女性と結婚したので身をもって家族の絆の強さは感じる。
但し、会社や学校や地域のコミュニティにおいては、別次元で、日本のほうが圧倒的に強い。

私は幼稚園から地域のソフトボールの大会に参加し、小学三年からは野球部に所属し、中学は平日は部活のバレーをし、週末はぎんなんラグビーに通っていた。高校から大学まではラグビーに明け暮れた。

但し、今の中国には、学校の部活もほとんどなく、小学一年から高校まで、勉学をとにかく詰め込む。
また博多どんたくや山笠のような地域の祭りごとも中国にはほとんどなく、地元を大切にする思いや、地域のつながりを意識する機会もない。

南京の友人で中学生までサッカーが好きな14歳の息子がいるが、彼は高校に上がってからは、サッカーをやめると言う。高校、大学とサッカーを続けても将来が見えないという諦めによるものだ。

日本はバブル崩壊後、当時どのような思いだったかはしらないが、93年にJリーグというプロサッカー協会が生まれ、そして全国に広がり昨年30周年を迎えたという記事を読んだ際に、その南京の子供が日本や欧州の子供たちに憧れるという意味が改めて理解できた。
Jリーグ、Bリーグ、Vリーグ、ダンスのDリーグ、また森さんが引っ張ってこられた日本ラグビー協会を始め、日本には子供が将来の夢を見るための未来のフィールドを運営する力があり、地域の結束があり、組織がある。

スポーツに限らずアート、デザイン、音楽、伝統工芸などの業界でも、日本には、子供が将来自分も活躍できるかもしれないという未来を、大人がサポートできる社会の仕組みが、しっかりと出来上がっている。

中国はこの20年で確かに高度経済成長を遂げたが、根本的な精神的な豊かさ、ライフスタイルの深さに関しては、まだまだ日本とは20年以上の差があるように感じる。

この度、自分の母校が100周年を迎えるにあたり、改めて日本人として誇りに思うと同時に、変えるものと変えないものを見極め、何か自分もできることを見つけ、未来の子供たちのために、一つでも貢献していければと思います。