寄稿 中学10回

中園先生の思い出

相浦閑次

福中ラグビーの中心には中園淳太郎先生―愛称淳ちゃん―がある。福中ラグビーの歴史に移り変りはあれ、強弱はあれ、福中ラグビーは常に中園先生を中心として流動してきた。福中ラグビーを創立し、その長い歴史を支えてきた精神の源泉は中園先生であったと信じている。

我々は常に先生の目を意識し、先生の方針にいささかもたがわぬよう努力したつもりである。しかるにまた反面、我々ラグビー部員ほど先生に心配をかけた者たちもいなかったということも肝に銘じている。どんなわるそうでも先生の一にらみに会うとふるえ上がっていた。それなのに我々は一度も叱られた覚えはない。それだけになおのこと、我々には恐い存在であった。

四年二学期の中間試験で成績がどっと落ちた。おふくろがたのみに行ったらしい。多分ラグビーを止めさせてくれと言ったのであろう。ある日、練習中グラウンドの片隅に一人だけ呼ばれた。「今日お母さんが来られた。練習を止めて早く帰れ」との一言。ピンときたので、おそるおそる「部を止めるように言って来たのですか」と聞くと、しばらく黙っておられたが、「いや、一週間ばかり練習を休めばよいだろう」。とにかく命令である。一週間は放課後すぐ帰って机の前に坐っていた。さぞ親は安心したことだろう。だが、私にはそれこそ永い一週間だった。 一週間の後、また練習を始めて遅く帰ってくる私に、親もあきらめたのか、何とも言わなくなった。先生は退くことによって勝つことを私に教えて下さったのである。

やはり四年のとき、丁度火災後で校舎を新築中でグラウンドには仮校舎が建てられており思うように練習もできない。 そこで練塀町に家を借り合宿し、六本松の福高※のグラウンドに出かけて練習した。なにしろその頃は悪童ばかりである。 福高生がグラウンドを使用しているのに割り込んで、あけさせるぐらいのことは平気でやる。自炊の薪は近所の農家の軒下に積んであるのを戴いてくる。 炊事当番にあたったものがなんとか飯はたくが、おかずがない。砂糖をぶっかけ、お茶をかけて食えという始末。当時、中洲の電話局の前に十銭食堂というのがあった。カツでもテキでもなんでも十銭。それがまたおいしかった。今から考えるとまことに良き時代である。 夜になると二、三人で出かける。その帰りに薪をかついでくる。それまではよかったが、二軒長屋の二階を両方借りて屋根から行き来していたのに、ある日学校から帰ってみると見事に壁に大穴があいており、そこから行き来できるように改造されている。便利になったと喜んでいると、早速翌日淳ちゃんに全員集合を命じられた。 身に覚えのある我々は恐る恐る指定された教室に集まった。 全員集合すると淳ちゃんは、やおら 「お前たちは合宿しちょるな」「合宿は学校が許しちょらん。 すぐにやめろ!」 それだけである。 我々はその日のうちに荷物をまとめて引き上げた。後始末は大変だったと思うが、その当時の我々はそんな心配など全然しない。先生もその後、何とも言われなかった。叱る場合も一番軽い罪を取り上げて叱ることが大切であるということ。これも後で納得した貴い教えであった。

五年になって秋の野外演習の時期が来た。当時の軍事教練の主行事で、市内の中学校が東西に分かれ、一泊二日間の演習を行うのである。 本多と私の二人が中園大尉の当番を命ぜられた。 楽な仕事である。 ノコノコ先生のあとをついて回ればよい。 本多は放っておけば何をするかわからない。うまの合う相浦と二人、自分の傍に置いておけば大したこともしないだろうという考えか、時には二人に楽をさせてやろうという親心か、思えばどちらも当たっていたと思う。 農家に一泊する。 我々の仕事は先生の酒の燗つけである。 隣の部屋のいろりばたで二人で一升瓶を横に置いて燗つけをする。勿論チビリチビリ毒味をさせてもらう。 これも当番の任務と思ってやっている。声がかかると替り番こに、徳利をささげて持って行く。 徳利でなくガラスのフラスコだったと思う。 こちらも多少飲んでも顔に出ない。 先生もフラスコの中の酒が少々減っていようと何とも言われない。かくて二人は無事、難役を務め終えた。毒は毒をもって制すということになれば、私も毒の一種と見られたのか。

先生は、とてもお酒が好きだった。全国大会の予選がすんだ後は全員を食事につれて行かれた。うどん屋とかそば屋で必ず二階に畳敷きの部屋のあるところで、我々には親子丼とか天丼とかが あてがわれ、先生は一人でチビチビと杯を傾けられていた。 いかにも楽しそうである。三年のときは試合には負けたが、それでも少しも変らない。負けたからといって何にも言われぬ。 試合の時はグラウンドでは必ず味方ゴールポストの下に軍刀を前について坐られる。敵に押されると後にもどらねばならない。どうしても先生の姿が目に入る。味方ゴールに近づけば近づくほど近くなる。相手にトライでもされれば、すぐ後ろに坐っておられるということになる。ゴールキックのすむのが待ち遠しいぐらいで、それっ!と飛び出して相手陣に突進することになる。

試合がすむと、そのゲームで、よかったプレーを指摘される。敗れた年も、三年で一人出場した堤正助のルースを割って出たドリブルプレーをほめられた。その外は何も言われない。それから会食である。我々も勝手なおしゃべりをしながら盛んにパクつく。これは今でも楽しい思い出である。

先生がとっても恐く見えるとき、何とも思えないとき、むしろ傍に居られると、ものすごく安心感を覚えるときがある。どちらも、こちらの心の持ち方次第である。 無言の教訓と今にして思う。

卒業後も、大学前の先生のお宅に何度かうかがう機会があった。酒のお相手もした。最後は外地に出征する前にお別れに出て、軍刀をみてもらった。その頃は足に腫れ物が出来て臥床しておられたが、とても喜ばれて床の上に起き上がられて色々お話を承った。これが最後であった。

※福高・・・旧制福岡高校 現在の九州大学教養学部

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.41)