若き日の感激
白井俊男
昭和八年の十二月も押し迫った冬の一日、ここ春日原グラウンドでは全国中等学校ラグビー大会九州予選が行なわれていた。
その日嘉穂中学を大差で破った福中は九州代表の覇権を握った。 いま優勝旗を腕にしっかと抱えて感無量。感激に燃えた若き血潮は、師走の寒風も何のその、わが青春の最良のひとときに酔っていた。
想えば苦難の年月であった。光輝ある伝統のチームキャプテンを仰せつかったのは、春まだ浅き頃であった。春の花、夏の海をもよそにして、ただただチームの強化のため、練習に練習を重ねた。夏休みには方々からOBが集まって来て猛訓練。流汗三斗しぼられるだけしぼり出す。夏合宿で仕上げて九月、いよいよシーズンに入る。
だが――佐賀高等学校主催の近県の中等学校大会では、僅差であったが修猷館に敗れた。つづいて地元の福岡高等学校主催の大会でも、たしか3-0で宿敵修猷館に名をなさしめた。おまけに公式戦にも敗れ去った。三回連続敗北を喫した。先輩達は切歯扼腕。叱陀激励の声も高まり、なかには、もはや今年は駄目だとあきらめの嘆息も耳に入る。先輩達の焦燥もさることながら、キャプテン、バイス・キャップはもちろん五年生一同の苦衷は切実なものがあった。
何としてでも、石にかじりついても勝たねばならぬ。臥薪嘗胆。日曜日も返上。当時門鉄の三宅さん(明大OB)が今年春卒業の若い福中OBをひきつれて、練習試合に胸を貸してくださった。そのあとタ闇が迫り、ボールが見えなくなってもコーチは続く。 スクラムの集散、ハンドリング、ダッシュの練習に、文字通り血の出るような猛訓練を受けたものだ。
やがて、いよいよ決戦の日がやって来た。全国中等学校ラグビー大会九州予選である。準決勝で修猷館と顔が会った。西鉄春日原駅を出てすぐの、踏み切り手前の茶店が、福中時代の選手の控所であった。先輩諸兄の激励もすんだ。必勝を期して水盃を酌みかわし、土器を地面に叩きつけて、いざ出陣。キャプテンの号令一下、敢闘の雄叫びがあがる。まっしぐらにグラウンドへ駆けつける。
間もなくゲーム開始の笛の音が、高々と春日原頭にひびきわたる。キックオフとともに、まなじりを決したFWが怒涛のようになだれ込む。ボールの争奪。敵陣内何回目かの攻撃から球を得たセンタースリー平岡がスイスイと抜けて、待望の先制トライをあげた。気勢をあげたフィフティーンは一致団結、必死の攻防を続けて得点を重ねた。遂に20-0の大差をもって、好敵手修猷館を降した。円陣をつくって、肩を組み歌う部歌の声も喜びの涙にとぎれた。
嘉穂中学との九州代表決定戦はその翌日であった。全国制覇を成し遂げたわけでもなく、たかが九州代表になったことくらいで、大げさなと言う人もいるだろう。しかし 一シーズンに三敗した相手を倒してのこの勝利、われわれにとっては終生忘れ得ぬ感激であった。団結と不撓不屈の闘魂、諸先輩の薫陶の賜物である。
当日、修猷の選手が頭髪を刈り、新調のバッグを持参していた姿が今でも目に浮かんでくる。味方のインゴー ル後方に、どっかと腰をおろし「アッコンお前たちゃあ、一歩も後退するこたあでけんぞ」とにらみつけていた退役陸軍大尉中園淳太郎教官。状況とともに一喜一憂して心配して下さった志賀先生。走馬灯のように想い出はつきない。
私ごとを書いて恐縮だが、この青春の体験は、その後の人生に貴重な教訓となった。軍隊にひきつづいてシベリヤ抑留五年、通算八年。復員後焦土のなかからのきびしい生活。おまけに長期にわたる闘病生活。これらに堪えた原動力は、この時代に培われたものと固く信じている。
このときのチームメートから六名が今次の戦争で散華し、二名が病魔に倒れている。謹んでご冥福を祈る。また四十数年来変らぬラガーメンの友情に感謝し、福高ラグビーの発展を祝福するものである。
最後に現役の諸君へ自らもテニスマンであった小泉信三先生の名句を贈る。
『練習は不可能を可能にする』
(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.60)