寄稿 中学14回

私のラグビー錬成史

藤熊夫

一、福岡中学時代

私は兄がラグビーの選手だったと言うので福岡中学に入学すると同時に上級生に薦められ、ラグビーボールを手にしたのが初めで、以来十三年間ラグビーの球と生活を共にし、苦楽を共々にして来た。

私の日常生活はラグビーの延長であり、ラグビーは私の生活の全てであり、精神力と肉体力の全部を打込むのもまた、このラグビーであった。

グランドに出ては倒れる迄頑張るのが私の練習の仕方であり、練習しない時でも常にラグビーの向上に務めた。

中学の三年生迄は体が小さ過ぎたので球を持って遊んでいた程度だった。藤は万年補欠だなどと言う連中もいた。自分もそれを半ば覚悟しながらも、何とかして大ものに成りたいと心をくだいた。四年生になるとラグビー部員が不足したので、やっとのことでスクラムハーフとして選手の仲間に入れてもらうこととなった。然し出場する試合毎に私の受持つハーフの動きが悪く、負ける原因となって、宿敵〇校には、一シーズンに三回も敗れてしまった。

責任を感じた私は疲労し切った体に鞭打ち、練習の休みや、練習の終了後も一生懸命にハーフの動きを研究したものだった。

福岡中学のラグビー部には福岡魂のこもった伝統と歴史があり、死んでも九州の代表となって覇権を守り伝統を維持しなければやまぬ強い意気が我々の心に漲っていた。

如何に惨敗しようと我々は挫けなかった。破れて悲憤の涙に暮れても、その涙の下から今度こそ勝って見せるぞと男々しくも立ち上る気力があった。日が落ちてボールが見えなくなると、こんどは靴を脱いで体育館の中で全部員一致して練習を続けた。

神々は我々の可憐な努力に恵みを与えてくれた。遂に最後の全国大会九州予選には各チームを大敗せしめて連続二覇に成功し、九州代表となった時の喜びは筆紙に盡し難きものがあり、今でも当時の事を回顧すれば眼頭が熱くなるのを禁じ得ない。この頃からラグビー競技が団結競技であり、チームワークが如何に必要であるかを知り、同時にラグビー界の名門福岡中学で私がそのラグビー部員として育くまれている事をどんなに幸せに思ったか分らない。

福岡中学はラグビー部創立当時より2年連勝しては1年敗れるという状態を繰り返しており、今までに一度も3年連覇をなしたことはなかった。

然し二連覇の後を引受けた時、丁度五年生になっていた私は、三連勝決行の旗印を立て、雨の日も風の日も、寒暑の別なく練習を繰返した。部員一同の堅い団結は、このただひとつの目的に向かって突進したお蔭で、その秋には創立以来の三連覇を立派に成し遂げ、以後七年間福岡中学は一回敗れたのみで、名門福岡中学の名は今尚ラグビー界に燦然と輝いている。

福岡中学を卒業した私は、親の反対を押し切って先輩某氏に薦められ、門鉄に入社、丸一年社会人として浮世の片燐を覗くことが出来たが、後私は、上級学校入学の決意を強固ならしめた。然しこの間当時の門鉄は九州ラグビー界を牛耳って居り、ここに入社した私は勿論ラグビー精神だけは忘れず練習も怠りはしなかった。この一年間に体も体重十八貫(67.5kg)・身長五尺五寸(165cm)と驚異的成長を遂げたので、今後の努力如何では、或は大学の選手になるのも不可能ではないと思い、先輩新島氏(当時明大ラグビー部副将)をたより上京し、明治大学の豫科に入学し、ラグビー部の新人としての希望多き生活が始まった。

二、明大豫科時代

当時明大ラグビー部には、福岡中学の先輩が三人も居られ陰に陽に私を励まして下さった。中でも新島さんは親身も及ばない程の面倒見て下さったが、一度グランドに出ては、人一倍酷い目にも遭された。然しこれこそが真の情ある指導であり最上の友情でもあった。

私はこの試練に負けはしなかった。スクラムサイドで猛威を振る新島さんを大それた考えながら付け狙い自陣突入を阻止せんとした。お蔭様でタックルの手が上った。福中の先輩が皆立派な選手になっているのに自分がぶらぶらしていたのでは申し訳が無いし、福岡中学に対してもまた両親にも申し訳が立たず、男と生れて運動人として立つからは、石に齧り付いても早く立派な選手になりたい一心であった。競争相手は多く、新人の私が進出する余地はなかったが私はどうしても諦めなかった。

こうしてる内に春季練習も終り、短い期間ではあるが、学校の休暇と同時に練習も打切られ、部員各自はめいめいの行動を許されて実家へ帰る者、帰郷する者もある。私は九州に帰郷したが、翌日から福岡中学のラグビー練習に参加した。これは来るべき最も猛烈な明大夏季ラグビー合宿に自分の体の調子を下げて居たのでは落伍者に列しなければならぬと思ったからであった。海へも山へも行かなかった。海へ行くより山に登ることよりも練習をすることの方が楽しい為でもあった。

聖峯富士山麓で行う明大ラグビー部の夏季錬成は聞きしに勝る、はげしいものであった。朝四時半起床、五時から八時迄は基本訓練、それから朝食、午後は毎日試合を主にして日没迄、実に体は疲労の極に達し、ボールのパスを行うとその反動で自分が倒れてしまうことが何度あったか知れない程の猛練習であった。

然しこの夏季合宿に於て、来るべき秋の大学対抗ゲーム出場のメンバーが確定するので、各部員の張切り方は物凄く惨め目にも合わされたが、ただの一回も練習を休む様な事なく最後迄やり通せた。

いよいよシーズンとなって、次回は対慶応戦という時、突然私はスクラムハーフからTBに廻され神宮外苑に晴れの舞台を踏んだ。この時以来私はTBとして出場する様になったが、この時は、この位置の研究不足の為に、対早大戦に敗北して、三連覇の夢を一朝にして失ってしまった。その責の一端は自分にあると今も思っている。

その年の暮に明大軍の上海遠征が行われ、私もその一行に加わる事が出来、上海倶楽部、米国マリン軍と一戦を交えるべく支那海を渡った。この時は丁度支那事変勃発の半年前であり、祖界では米英人が権力をふるい、日本人は数こそ多いが、横暴な彼等の振舞いを如何とも出来ず、鬱憤が蓄積していた時のこととて、我々一行の訪れを大変な歓迎で喜んでくれ口々に「死すとも負けないでくれ日本人の意気と実力を示せ」と激励された。 体重二十三貫(86kg)から二十八貫(105kg)もある彼等と平均十七貫(64kg)の日本人との試合であるから、体力的には非常な差があったが、我々の闘志は天を衝き、勝たずば支那海を渡らぬ気概と覚悟を持って出場した。

大日本帝国を背中にしょった大和男子の血は、冷静なうちにも逆巻きたぎり、敵愾心の現れはチームの力を十二分に発揮させ正に堂々と上海の最強チームを打破った。

美しくかり込んだグランドの芝生の上を引き上げて行く我々の頭の中に浮かんで来た事は、重大な責任を果し得た喜びと、在上海の日本人同胞が、きっと今迄の積り積った鬱憤をいくらかでもはらしてくれたであろうと思う喜びとであった。

グランドから控所に入ろうとする時、突然私は私の手をしっかり握りしめられて、顔を上げると、そこには時の海軍第三司令長官、長谷川清閣下が立って居られ、眼に一杯の涙を湛へられその言葉もとぎれがちに「有難う、よくやってくれた」と私等の労を心から労ってくださった。抑えに抑えていた私の心もこの閣下の言葉に一度に堰を破られて、手ばなしで泣いてしまった。

米国マリン軍の試合は、これを軽く一蹴し優秀の成績で上海を左様ならした。

そしてこの上海遠征の覇業は私の豫科生時代の最大の思い出として未だ記憶に明確に残っている。

三、学部時代

丸帽から角帽になりチームの中堅にと進んだ頃には私も身長五尺六寸(170cm)、体重十九貫五〇〇(73kg)で、部内の最重量者となっていた。
当時の明大ラグビーは早大に二連敗をうけた後のことで、今年こそは勝たぬと早大に全国三連覇という偉業を与えることになるので、何とかして早大より覇権を奪回すべく計画を立て、緊張した練習は毎日くり返された。が不幸にも夏季練習の富士山麓合宿に於て、我等が信頼する主将の仙崎さんが練習中奇禍の為、不帰の客となられ我々は悲嘆のどん底に蹴落されてしまった。部員はなすべき事を知らなかった。然しシーズンは日一日と迫り、涙のかわく間もなく、新主将の統率の下に、我々は故人に対し全国征覇を唯一の餞とすべく男々しくも立上った。立、帝、慶と関東の雄を打破り、縣外西都に於ては同志社、京大をも大差を以て軍門に下し、宿敵早大とは、故人の霊我等を守り給いしか、苦戦大接戦の後に遂に、この大敵をも打負かして、全国征覇の大業を竪立させたのであった。

然しこの全国征覇の甘夢に酔ういとまもなく我々は、次の日より翌年のメンバー編成を行わなければならなかった。十五名の正選手中十一名の選手を送り出す明大ラグビー部は前にも増して苦難時代が目の前にやって来たのだ。明大組し易しの感を抱かしたのもこの時であった。然し新主将となった新島さんは偉かった。

恐らくひとりで十人分の働らきを、どの試合にもなされたろう。どの試合も苦戦だったが然し皆幸いにも勝った。そして又々早大軍と相争う事となったのだ。

試合前夜、私は新島主将に部屋に来いと呼ばれた、この時に新島主将から明日の作戦を相談されたのだ。それはスクラムサイド突破の一本槍であった。そして私はその全責任を持たねばならなかった。戦いは開始されたがこの作戦は見事に当たった。思う通りに早大のスクラムサイドをかきまわして、ここからトライのチャンスを見出した。そして先年の偉業を引きついで二年連覇の幸運が明大軍の上に輝いたのだった。
今でも思う新島主将の鉄の如き意志と決断力とを。

四、主将時代

天下の名選手新島さんのあとを受けて私が十六年度の主将となった。六十名の部員が一致団結して三年連覇に向って精進したのは、言う迄もない。が然ししても此處に故障が持ち上ってしまった。 夏以来多少無理をしていた私の膝に到々水がたまり、悪化する一方で、遂に早明戦をひかえて一週間前、入院を除儀なくされてしまったのである。主将を失うことはどこのチームでも打撃であるが、明大もこれには困ったが、然し団結は破れなかった。そして対早大戦の作戦会議は私の入院した病院で行われた。私に変わって元気なものをとの私の申出も部員の入れるところとならず、私は足を一本失う覚悟で出場に同意したのであった。医者に相談をしたところ、当日脚がよければ或いは、とのことで、不安なうちにも明るいものを感じて来た。そして私の悪い足は出場の覚悟が出来た日からグングンと良くなって、試合の前日には久しぶりでグランドに出て、軽く走って見たが、これならという自信を得たのだった。部員一同は本当に飛上って喜んでくれた。これなら優勝確実と、夕食後は全員にて明治神宮に参拝し優勝を祈願した。

早大は私の出場を予期しなかったし全部員私にたよらず勇敢に闘ってくれ、遂に明大としては最初の全国三連覇の輝ける勝利をもたらし部史を飾ることが出来た。

こうして私の戦闘史は終るのであるがこれを読まれる諸君は、結局スポーツとは勝つことのみを目的としている様に思われるかも知れない。然しそれは違う、立派な身体と正しい強い意志とを養うのが真のスポーツの目的であるのだ。

中学時代に九州中等界で最初の三連覇をなし、大学に於ても亦三連覇をなして窓を去ることの出来た私は又となき幸せ者であると思っている。

五、結び

卒業後短期間乍ら兵役にも服した。日頃の錬成により体も精神も到って丈夫であった為と、営内に於ける内務も合宿生活に馴れていたので、何等の苦痛も感ぜず果し終えた。

今又一会社員として勤務をしているが、休日には先ずグランドに出て体力の低下を防ぎ一日も早く銃を取り再び一線に役立つ日を待ち詫びている。

此れからの若人は苦味をさけてはならぬ。自からその苦味の中に勇敢に突入して行くことを心よしとしなければならぬ。

苦味の中に突入してその苦味を證した時の喜びは、決して忘れるものではない。この尊い経験からうまれた喜びこそ君等に正義感を興へ処世訓を教えてくれる。
その時にこそ、君等への期待は立派に果されるものと信ずる。