寄稿 中学16回

全国大会を夢みて

森 菊郎

五年生の夏休みがやってきたが昭和八、九、十、十一年と先輩諸兄が連続四連覇、九州代表として甲子園に駒を進めているだけに、人並みにのんびりと夏休みを楽しむことは許されなかった。

春日原グラウンド近くの農家を借りて合宿練習がはじまった。先輩のコーチで朝露を裸足でふみながらグラウンドまで駆足。 体操を交えた基礎トレーニングを終えて朝食、そして又練習と…..。当時の楽しみは眠ることと食うことだけでいくら食っても満腹感はなかった。

合宿がすむと、今度は福中グラウンドでのハードトレーニング。グラウンドは石のように堅い感じで傷だらけになっていた。練習の苦しさも手伝って、主将の清原と中園は練習方法で意見が衝突した。口論だけではすむはずがない。派手な立回りを展開してしまった。しかしチームの補強策がまとまり、九州予選前に陸上競技部から短距離のエース中島義満、柔道部の主将沢吉兵衛が入部。TBとFWが夫々偉容をもち、意気も揚ってきた。

十一年秋の九州予選が春日原運動場で始まったが、準優勝戦で嘉穂中学に3-3の抽選勝をしたとき、抽選に敗れた嘉穂のフィフティーンが最終戦まで福中の応援をしてくれたスポーツマンシップには、生涯忘れることのできない感銘をうけたものである。嘉穂の分まで甲子園で頑張ろうと全員が心に誓っていた。

優勝戦は修猷館に14-8の逆転勝ちをした。多々野、中村のCTBがうまいコンビネーションプレーをしてくれた。また清原のコンバートの度に全員がかたずをのんで祈ったものである。 九州優勝! 「千代原頭・・・・・・」を歌いながら手放しで泣いていた。

甲子園へは門司港から船で神戸港へ、狭い上甲板で秘策を胸にパスの練習をつづけていった。引率の先生には見つからなかったが、おかげで上服のポケットを焦がしたのも船上の出来事の一つであった。

十二年の正月、初めて味噌汁の雑煮を食って、いよいよ三日、夢にみた甲子園南運道場はスタンドも芝生も素晴らしいもので、スタンドの大観衆をみただけでボーッと上気してしまった。

対するは中国の雄崇徳中学。体が大きくみえて仕方がなかった。3-3のまま試合は一進一退、後半残り時間の見当が全くつかない。ボールはタッチキックせず勝たねばならぬ一心で中央突破を試みた。十米先にポールが見えた、タックル、左に多々野、中村がみえる、パス、ルース…どうしてもトライができない。時間が気になる、ついに相手のポスト下でノーサイドのホイッスル。残念だが後輩諸君に雪辱を期待せねばならない結果となった。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P80)