寄稿 中学18回

七年連続九州制覇

高松坂明

重い伝統を受け継いだ新チームは、七年連続の九州代表の座を目指し、昭和十三年五月一日幸先良く、七人制大会に五年連覇した。次に上級の西南高等部を母校グラウンドに迎え、練習マッチを行なった。結果は芳しくなかった。はじめて対外試合を経験する者が多く、試合の形にならなかった。これを機に練習は一段ときびしさを加え、太田主将の性格もあってか、文字通り月月火水木金金で、新入部員の脱落も続いた。七月には初めて福岡商業と相見え、軽く押えた。

昭和14年の福中ラグビー部総会

かくて八月七日、恒例の総会には多数の先輩が集まり、仰天した。東京の各大学、地元高専のすべて、そして当時実業団の雄門鉄等である。おそらく、全国の中等学校を見渡しても、当時これだけの強力なOBメンバーが組めたのは少ないのではないかと自負している。手取り足取りで、極めて丁寧な教え方の新シャン。やさしかった斉藤一男さんや白井さん。それから、西日本新聞を飾った「福中春秋」にも記載されているが、過去福中ラグビー部の果せなかった夢の全国制覇を実現したチームに、病艦を省りみず、まるで人が変ったように、傍から見ていていかにも後輩が可愛くてたまらないといった感じで、自分の持っているすべてを注入する如く指導された梅津さんは、 当時は強豪門鉄の闘将であり、グラウンドでは、恐怖の先輩であった。まもなく鬼籍に入られたが、在世中に夢が叶えられたことは、後輩諸君の何物にも替え難い贈物であったろう、と当時を回想する度に今でも涙がこぼれる。

先年二十五回忌に参列して思い出を偲んだ小熊と言われた藤熊夫さんも鮮烈な印象が残る。練習では恐い人であったが、終われば茶目気タップリで、良き兄貴分であった。忘れ難い一人である。

大学の先輩連が東京に帰った後、練習マッチの相手は西南高等部であった。連日苦戦であったが、ある日ついに勝った。西南の熱血監督速水氏は断髪令を下し、我々も漸く一矢報い得て溜飲を下げた。長い夏の練習は明善・佐中とゲームを行ない、全く寄せつけない程力を発揮して締めくくった。

シーズン突入の緒戦には、今や好敵手となった西南と対戦した。手の内を充分知っていた為か、前半は全く互格の接戦となり2点差でリードを守ったものの、敵は夏の苦杯を思い出してか異常な闘志で、後半は全くの惨敗であった。発情した太田主将以下、チームメートの松村理髪館に赴き、クリクリに剃り上げて学校中の話題となった。その位口惜しかった。次に明善を押え、再度上級学校の関門を突破せんと九州医専に挑戦したが、結果は対西南戦と等しく、後半に潰滅した。ここらが体力の差であったろう。更に修猷、福商、門鉄小倉と毎週実戦訓練に励んだ。セカンドロー、右ウイング、フルバックの戦力が今一歩の感じであったが、漸く十月修猷戦より、ウイングに駿足陸上競技部員、 フルバックには捕球の旨い野球部のセンターを補強して、戦力のアップに努めた。県主催大会にも三連勝成ったものの、福商には1トライ差に迫られ、追われる者の弱味は否定できなかった。

かくて十一月二十日、待望の全国大会の予選がその幕をあけた。この日の為にあらゆる欲望を殺し、休む事なく続けられた猛練習の成果を問う時が来たのである。 第一戦は好敵手中の好敵手たる修猷館であった。その当時福岡部と博多部を二分した伝統の一戦である。グラウンドには大量の生徒を動員した両校応援団の殺気が漲り、無気味な静寂の中にキックオフの笛を聞くまで足が震えた。 遂に、秋色濃い春日原に運命のホイッスルが一際高くひびいた。とにかくスクラムを組み、ルースに突っ込み、そして敵影に体を投げつけた。全く余裕はなかった。気が付いたら6-6の同点である。我が左ウイングは、ラインぎりぎりのところを快走して左隅に飛び込み、コーナーフラッグも倒れた。決勝のトライである。勝った、遂にやった、と思った。だが何かが残った。時間が切れてはいなかったか、あるいはラインを踏んではいなかったか。謎である。終生の心のシコリである。 死闘を終えた後のあのすがすがしさはなかった。立派に勝ちたかった。筆者は近年その時の修猷の選手と同じチームで楽しくラグビーをやり、温い友情に支えられているが、酒席を共にした時、進んでこの時の気持を話題にする。好敵手の気持が分る。相手はその事については、多くを語りたがらない。いつか、何かの折に発表したいと念願していたが、遂にその機会が来たようである。本望である。

福岡地区代表決定戦は福商であり、このチームは巨体を揃え早くも翌年甲子園への夢を果すのであるが、この試合5-0の僅少差ながら、全然負ける気はしなかった。やはり恐るべきは修猷であった。いわゆる伝統の一戦というものが、いかなるものであるかを痛感させられた。第二次戦の嘉穂中も二度目の対戦であり、後半遅まきながら点差を拡げた。熊本工との決勝戦は全く一方的であった。当時九州の中等学校のラグビーは福岡市の三校が抜きん出ていたのである。七年連続九州制覇を成しとげたものの、その道程はきびしく、血を吐く思いであった、といっても過言ではない。

昭和十三年年末、 博多駅頭盛んな見送りと激励を受けて、勇躍甲子園に向って出発。 門司港から、当時の大連航路の新鋭船黒竜丸に乗船。瀬戸内海の風景を賞でつつ、翌朝神戸上陸、甲子園の宿舎に入った。昭和十四年元旦宿舎の関西流の味噌汁の雑煮は珍しかった。第一戦の組合せは初出場の台北工である。浜甲子園のラグビー場はスタンドが高く、見慣れぬ我々には異様な感じであった。3―0で勝ったものの足が地につかない感じであった。翌翌年同地区代表の台北一中に目の前にぶら下った覇権を阻まれようとは知るよしもなかったが、中々しぶとい好チームとの印象が残っている。

第二回戦は地元の神戸一中である。 マナーも良く、試合運行もオーソドックスで、応援も多かったが今大会の一流チームであった。スコアの示す通り完敗である。栄光への道のけわしさを痛感した。 強い相手は大きく見えるものであるが、敵ながら素晴らしく均整のとれたチームで、優勝候補の随一と目された秋田工業を、押しに押しながら無念の抽選負を喫した。

かくして昭和十三年度のチームも全国制覇の夢ならず、後輩諸君に後図を託したのである。心残りは五年生が多く次年度のチームに戦力的影響を与えた事である。

終わりに福中ラグビー部に在籍し得た事は半生の心の支えであったし、将来もまたそうであろうと思っている。いまだに福高ラグビー部の声価が高いのは、先生方・先輩・後輩諸氏の御尽力と、現役諸君の伝統に対する責任感の現われであろうかと、頼もしく見守っている。全国に散らばる福中・福高の卒業生が、あるいは地元のグラウンドで、あるいは新聞・テレビ・その他の報道機関を通じて、母校ラグビー部の活躍に期待していることを忘れてはならないと思う。まだまだ想い出深い先生・先輩について記しておきたいが、他の回の人も書かれるものと思い割愛する。

最終メンバー
1高松(昇)
2吉岡
3高松(坂)
4森山
5村上
6篠原
7大熊
8松村
9田中
10加世田
11木原
12太田
13石田
14宅島
15石井

右の内、チームの圧力として活躍した吉岡七郎はビルマで、太田賢三はサイパンで、石田耕治は場所不明ながら特別操縦見習士官として、太平洋戦争中悲劇の戦場にいまだ若い身を散らした。哀惜の念に堪えない。奇しくもこの三人は当時の修猷館の選手から借用した、福中ゴール前の死闘を旨くとらえた写真に鮮明にその面影を止めている。この部史と共にいつまでも残るであろう。

想い出の春日原頭 全国大会予選対修猷館戦(昭和13年11月20日)

<戦績>
第五回七人制ラグビー大会(5月1日・春日原)
第一回戦
福中6-3修猷
第二回戦
福中23-0佐賀中
優勝戦
福中8-0福岡商

メンバー
FW 山崎・吉岡・高松
HB 太田
TB 加勢田・松村
FB 石田
五年連続優勝成る

公式試合
福中24-3福岡商(7月29日・春日原)
福中65-0明善(8月24日・春日原)
福中68-0佐賀中(9月4日・九医)
福中8-30西南高等部(9月10日・春日原)
福中44-6明善(9月25日・春日原)
福中5-28九医(9月25日・九医)
福中16-6修猷(10月2日・九大工科)
福中17-0福岡商(10月8日・九大工科)
福中12-13門鉄小倉(10月9日・九大工科)

県主催第三回中等学校ラグビー大会(10月29・30日・春日原)
第一回戦
福中16-0嘉穂中
準優勝戦
福中3-0福岡商
優勝戦
福中24-0明善
三年連続優勝成る

九州第一次戦
一回戦
福中9-6修猷
福岡地区代表決定戦
福中5-0福岡商
九州第二次戦
福中13-3嘉穂中
九州代表決勝戦
福中29-5熊本工
七年連続九州代表となる

大毎主催全国中等学校ラグビー大会
一回戦
福中3-0台北工
二回戦
福中6-27神戸一中

本稿筆者 高松坂明から中20回村上令に贈られた写真(前列右が高松、後列右が村上)

【修猷館OBの回想】

「太陽」と「星」との関係

守田基定(修猷館OB)

修猷館の好敵手福中(現福岡高等学校)のラグビー史が、遂に完成された。誠に意義深いものがある。福中ラグビー半世紀の歩みは、先輩諸兄がたぎる闘魂によって獲得された、輝かしい戦歴でつづられた栄光の物語である。この部史は、九州ラグビー史のバックボーンであるといってよい。それだけに後輩の心をとらえて離さないであろう。それは、教科書以上の教科書であると思う。現役の諸君は部史によって、伝統が一朝にして出来上るものでないことを認識されたであろうが、この偉大なる遺産に対し、これからは君たちの手によって先輩に負けぬ、歴史を作っていかなければならないのである。それは、日々の練習に励むことによって、作られるものであろう。

私どもの母校修猷館でも、創部四十周年を記念して、昭和四十年十月に部史を発刊した。 その狙いの一つは、宿敵福中におくれをとっている現役に、OBの期待と願望をこめて編纂されたのである。

我々の現役時代で修猷館が福中に勝って全国大会へ駒を進めたのは、昭和四年の第十一回大会、 溝口博福岡県ラグビーフットボール協会会長が主将をつとめていた時代だけであった。そのあと綿々と負け続けた。各期の先輩は、「我々の恨みをはらしてくれ。この無念の涙を後輩の手で拭き払ってくれ」と、学舎を去っていった。後輩は鬼よりこわい先輩の落胆した姿をみて「よし、俺達の手で必ず宿敵福中を破ってみせます。全国大会に出場します」と誓い合い、幾度となく自分自身を励ました。練習のはじめと終わりには必ず全員で「打倒福中」を誓い合ったものである。

私どもは、朝に自主トレーニングをやり、登校すれば十分休みもグラウンドに出て、FWであればフッキングやプッシュの練習を、TBはパス、キック、コンバートなどを、くりかえしくりかえし練習した。放課後の練習ともなれば次第に熱が入り、時間のたつのもわすれた。時にOBが顔を出せば「百道松原の松が曲っとうたー、俺達のタックルでぞー。一発必殺で行かにゃ、福中の連中ば倒せんぞー。このばかたれが!」と大声が連発銃のようにとんで来たものであった。日はとっぷり暮れ、暗闇の中でボールを追った。傷つき、汗を流し、泥まみれになり、時にはむしょうに涙が流れたこともあった。それでも、春には勝っても秋の全国大会予選では必ず負けてしまった。その当時は福中の赤のジャージーが憎かった。しかし不思議と選手に対する憎しみはなかったように記憶している。

戦後、かつてのライバルどうしで酒を汲みかわしながら、昔話に華が咲くこともしばしばである。話はその時その時のゲーム内容から、試合の晴着にまで及ぶ。お互いのジャージーの色である。

修猷の方はあたかも玄海灘の海の色と、百道原頭白砂青松のコントラストをとり入れたかのようにブルーと白の縞である。校章からしてそうだが、何んとなく星を思いうかべる。福中は真紅に白線、実にあざやか。若さの熱気に満ち満ちている。これは太陽。福中連から声がかかる。 「スターといえども太陽のもとでは色あせるばい」。なるほど星は夜こそ光り輝やくが、昼間ではかたなしである。

また、福中・修猷戦に臨む前には、両校とも神社に詣でて必勝を期し、春日原に向ったものである。修猷は水鏡天満宮でお祓を受けて出かけた。福中は筥崎宮に参拝し、土器に神酒をいただき、飲み終わると主将がそれを地面にたたきつけて必勝出陣したという。

福中・修猷戦にはいろいろなことがあったが、この部史によって思いを新たにすることであろう。また、今迄どうしても解せなかったことなどがハッキリするであろう。私は修猷・福中の龍虎相打った名勝負が、浮き彫りにされているであろうこの部史に大いに期待している。

久し振りに、最も男くさい雄壮な歴史を繙き、夢多き少年時代を偲びたい。またこの大事業の完成を、修猷ラガーの一員として心よりおよろこび申し上げたい。福中ラグビー部のいっそうの御発展を祈る。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P87)