寄稿 中学19回

志賀先生のことなど

田中 貞朗

<志賀部長先生を憶う>

福中ラグビー部の生みの親である中園先生の後を継いで部長に就任された志賀先生は、昭和十四年九月二十三日突如として他界された。このことは、当時血気盛んなわれわれにとって非常なショックであった。

部長就任以来あんなに張り切っておられた先生が四十五歳の若さで帰らぬ旅に立たれようとは夢にも思わなかった。

志賀先生は大正十五年に朝倉中学より福中に転任され、歴史を担任された史学家であり、その人格と広い識見をもって、福中精神の発揚に大いに努力されました。一方また、中園先生の良き参謀として、親切にラグビー部員の面倒を見ていただき、特に昭和十一年四月よりはラグビー部長として活躍されました。爾来わず三年ではありましたが、文字通り今日の名門福中ラグビー部の黄金時代を築きあげられ、わが部史に残る名部長であったと思います。

志賀先生が余生幾ばくもないのを知りながら最後まで天職である育英の道と、我がラグビー部の発展のため身命を投げうたれたことは、真にラグビー精神の発露であり、その偉大さを今さらながら痛感する次第であります。

今でもひげを生やされた、色黒な顔が目に浮ぶようです。葬儀は朝倉郡の筑紫にある御自宅で行なわれましたが、ラグビー部全員参列し先生のありし日の姿をしのびつつご冥福を心よりお祈りいたしました。

2代部長 志賀虎雄先生

<我が人生とラグビー>

昭和十四年度は中心選手九人を送り出したため、まず部員編成の戦いより幕が切られた。

この年の九州ラグビーは福商が三年計画達成の最後の年であり、昨年よりの不動のメンバーで初の優勝を飾らんと意気軒昂たるものがあり、これに伝統の福中、修猷の三つ巴の激戦が予想されていた。

ちょうど支那事変が勃発し、学校も運動よりも戦時色のつよいシーズン当初は何より部員集めにと、毎日クラスを回っては部員を勧誘したり、朝早く校門に立ってはラグビー部のPRにつとめた。

部員一同の努力がようやく実り、何とかチーム編成の目途が立明るい希望が出てきたのもつかのま、また中心選手二、三名を欠くことになり、先輩の熱心な指導にもかかわらず、 夏季合宿には遂に十五人の部員がそろわず最悪の事態を迎えることとなった。

暑い盛りの夏季合宿は午前は全員で部員集めに東奔西走し、午後は現役より多い先輩に尻をたたかれ、まさに人間の限度を超え苦闘の連続であった。

かかる全員の努力にもかかわらず今シーズンは先輩の残された伝統を守ることができず、芳しからぬ成績に終わったことはくれぐれも残念であり、先輩や下級生にたいし申しわけがないと思っている。

しかしながら現在振り返ってみると、そのような苦しみを耐え抜いて来たことや、戦いに敗れた苦い経験は、この人生を送るうえに力強い体力と、いかなる逆境にも負けることのない自信と力を植えつけてくれたものとつくづく感謝している。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P94)