再度の試練にもめげず
加勢田 太郎
前年度の敗戦によって諸先輩の伝統に汚点を残したあとを受け継いだ私達は、この汚名をそそがんものと四年生の三学期より悲壮な覚悟でラグビー部再建に取り組んだ。
福中ラグビー部の伝統を維持し、さらに福中ラグビー部がどうしても成し得ない全国制覇の偉業を達成するためには、今後のラグビー部はどうあらねばならぬかを真剣に考えたのである。
幸い私達十五年度の部員は前年度レギュラーメンバーの約半数が残っており、それにほとんどの者が一年生時代から入部していて、技術、理論、精神面で先輩に十二分に鍛え抜かれ、福中に入学したのはラグビーをやるためというような者ばかりであった。
私達五年生幹部一同が色々話し合い検討した結果、ラグビーは十五人で試合しても勝てるものではない。 二軍、三軍の控えの選手がいてはじめて満足した練習が出来て試合にも勝てるのだ。秋田工業があのように毎年強いのも二軍、三軍の控えの選手がいるからだという結論を得た。
私達は各学年毎に十人位の部員確保を目標に、その具体策を松隈部長先生に申し出て、河上校長に私と村上君(現西日本新聞社)で話をもっていった。全校生徒を運動場に集めて部員募集をやらせて欲しいとの私達の申し出に最初は校長も返事に困られた様子であった。校長は私達と一緒に椅子を並べて、私達の話を聴いてくださったのである。
現代の世相からすると校長と生徒のこうした対話などめずらしくもないことであるが、当時は異例なことであり、今にして思えば河上校長がいかに民主的な人で、人格者であったかが偲ばれるものである。校長は下級生に対して暴力的行為がないように諄々と説かれた後、直接校長の口から許可された。私と村上君は感謝感激して校長室を出たのである。
早速部員一同と相談して募集を行なうことになったが、何といっても募集に応じてくれなければ何にもならない。それがためには私達が目標としている全国制覇達成のための部づくりを理解してもらわなければならぬ。この大任を誰がやるか問題になったがやはり主将がやるべきだということで私の任務となった。
当日は部長先生の監督で全校生徒を運動場に集合させて、ラグビー部員はその前に整列した。その時、私は「しまった」と頭の中がかっとなってしまった。前日悪い頭を一生懸命にひねって書いた原稿を持ってきてないのに気がついたのである。私は元来弁舌の方は不得手であり、まして全校生徒を前にして壇上から話すということは初めての経験である。今さら原稿がないのでやれないとはいえぬ。一か八かの強心臓で壇上の人となったが、使命感にあふれていたことだけは確かである。飛び出した言葉が博多弁で、自分でも何を言っているかわからぬ位だから話のすじなど通っているはずがない。壇上で突然博多にわかが始まったようなもので、みんながくすくすと笑いだした。しかし話す方は一生懸命である。人間、誠意をもって事に当れば必ず相手に通じるものである。私の博多にわかも、途中から笑いもとまって最後まで真剣にきいてくれたから不思議である。このようにして最初の理想とまではいかぬが、部員数は三十人を越すようになった。
私達はシーズンを迎えるにあたり相当な自信をもっていたのであるが、第一番目の試練が五月に行なわれた七人制大会で早くもやってきた。昨年に引き続き修猷館に負けた (0-6)のである。
七人制の練習試合では負けることを知らなかったし、九大、福岡高商(福大)、西南(西南大)を相手に連破し続けた。が、対福高商戦でHBの安武君(現三井東圧化学)、TBの松田君(現耳鼻科病院開業)が負傷して大会に出られなくなり、即製のスクラムハーフが大穴となって修猷館に敗れたのである。当時の修猷館には全日本級の選手になった牧君(立教大-九州電力)、岩城君(早大-八幡製鉄)、堀君(早大-三井化学)等がいて、強力なバック力を誇っていた。
第二番目の試練は旧制福岡高校主催近県中学大会で福岡商業に敗れたことである。
引き続く連敗で私達は大打撃をうけ、大いに反省をさせられた。特に福商戦ではFWが押しまくられて、どうしても球が味方に出なかった。球が取れなくては初めから勝負にはならない。私達は色々と検討の結果、ラグビーの原点に立ち戻りFWの強化が先決だということになった。
最初スクラムセンターに三年生の河野君(戦死)を使っていた。当時の考え方としてスクラムセンターは体力がなくてもフッキングができればよく、前列三人は比較的に新人をもって来てメンバーを編成する傾向があった。FWのメンバー編成の考え方として古参になれば第三列をやるというような考え方であった。FWリーダーで副主将の森山一男君(自家営業)と野田英彦君、半田喜兵衛君(西日本新聞社)、村上君等のFW幹部と相談の結果、野田君をスクラムセンターにしてFW第一列の強化を図ったのである。
また練習方法も変えた。本格的ラグビーシーズンの十月になると日没が早くなり、練習時間が足りなくなる。それで基本的なプレーは休み時間を利用して各自でやる。放課後の練習はチームプレーを主体にし、FWのスクラムはランニングパスの中に入れて、走って直ちにスクラムを組み、押す、球をフッキングするというように試合を主体に考えた合理的な練習をした。
以上のような編成替え、練習方法の改革とかについて、幹部はじめ五年生一同が中心になり、よく私を盛りたてて、相談にのり協力してチームを引っ張っていってくれたと思っている。とにかく、与えられた環境、時間、チームをいかに合理的に、的確に使用して目標を達成するかを常に相談し合い、推進していったのである。
これには野田君の家庭(市内大学通り野田医院)の後援が、大い力あったことも特筆に値する。私達は野田君の家によく集まったものである。そして度々すき焼のご馳走にあずかりながら、色色の相談や、よもやま話等をして遊ぶ中にチームワークもできていったと思うのである。
このような研究、検討、協力、努力の結晶が最終段階で実を結び、幸運も伴ったこともあるが、全国大会九州予選に修猷館に逆転優勝し、全国大会では最初の優勝戦出場が出来たと思うのである。
<昭和十五年度部員名簿>
五年生
加勢田太郎(主将)、森山一男(副主将)、村上令、松田一夫、安武恒夫、野田英彦、今林獅子狼、山田専太、半田喜兵衛、藤野正之(戦死)、林真喜三(戦死)、 葉山忠雄(戦死)、石本善信(死亡)
四年生
白水久、岩戸優、高橋敏夫、伊奈義郎、久光鉄也、浜田俊一、合屋俊成、畑井政郎、黒岩正 (戦死)
三年生
瀬戸、永江、清原、太田、向、吉田、島田、河野 (戦死)
二年生
鶴丸、加藤、船越
<戦績>
七人制ラグビー大会(五月五日・春日原)
福中 0-6 修猷館
福高主催近県中学ラグビー大会(六月九日・春日原)
福中 3-6 福商
神宮大会福岡県予選(十月十三日・九大)
福中 0-0 修猷館(抽選負)
全国中学ラグビー大会九州予選 (十一月二十三~四日・春日原)
全国中学ラグビー大会(昭和十六年一月二日~七日・南甲子園)
一回戦 福中 14-8 松坂商
二回戦 福中 3-0 保善商
準決勝 福中 5-0 養成高普
決勝戦 福中 0-3 台北一中
メンバー
FW 黒岩 野田 今林 石本 伊奈 藤野 山田 河野 森山
HB 安武 加勢田
TB 葉山 松田 白水 高橋
FB 林
【石本善信君、甲子園の華と散る】
全国大会第二回戦の保善商業戦に3 3-0で勝ち意気揚々と引きあげてきて、戦勝に酔っていた控室に突然石本君の卒倒が知らされた。
私はちょうど便所に行っていたが、そこに石本君が「気分が悪い」と言って入ってきた。 そしたらそこで崩れるように倒れたのである。早速医務室に運び込んで医師の手当をうけたが、すでに意識不明で、私達はただただ呆然と見守るばかりの有様であった。
西宮の病院へ救急車で運ばれ、入院したが、一昼夜もてば何とか命は助かるとの話であった。
そもそも私達は一回戦で三重東海代表の松坂商業と対戦したが、松坂商業は歴史も浅く、当時としては三重東海代表といえばいちばんレベルが低いといわれていた地区であったが、非常に苦戦の末、やっと勝つ始末であった。それに二回戦の相手は保善商業と決定しており、その保善商業は優勝候補の秋田工業と堂々と戦っ引分け試合をやっていたのである。「明日の試合は保善からみじめな目にあわされるぞ。お前達は荷物を片づけて今日のうちに「帰ったがよい」と先輩達は一回戦のぶざまな試合ぶりから私達を叱った。
二回戦の保善との試合には、負けてもともとというような気持で臨んだのであるが、前述の如く見事にこれに勝った。
保善商業としては優勝候補の秋田工業に勝ったので、優勝したような気持であり、松坂商業に苦戦した福中など問題にしてなかったようである。しかし対戦の結果は3-0で福中の勝ち。FWはタイトスクラムにルーススクラムに敵を圧倒して、堂々とバックスに球を回してトライをあげた。その他にも再三チャンスをつくり保善商業を完全に圧倒した試合内容で勝利を得ることができた。
石本君はこの対保善戦の途中で、 ルースの中で倒れていたそうである。私達バックスの連中は全然気がつかなかった。死亡の原因は脳内出血といわれており、この時に頭を打って負傷したものと思われる。しかし石本君は試合の最後まで、チーム全員と試合を続けてだれも気がつかぬような働きをやったのである。
それが試合が終了して間もなく倒れたのであるが、死ぬような負傷であったとは誰も思ってはいなかった。
三回戦の養成高音との試合には石本君の代理で出場した四年生の伊奈義郎君がトライをあげて勝った。伊奈君はこの試合が初めての公式戦出場であった。
石本君の死亡は優勝戦の朝、宿舎を出る前に全員に告げられた。この日は朝からの雨で、石本君の死亡に対する私達の慟哭を天も共に涙を流してくれているかの如くであった。
優勝戦の相手は台北一中で、石本君の弔い合戦ということで全員喪章をつけての出場である。甲子園独特の強い風をともなったみぞれまじりの雨であった。
台湾は暖いところだから今日の寒さは天も我に味方している。
それに昨日までの試合ぶりを見ても台北など大したことはないと、私達は保善、養成を撃破した勢いにのって、今日は石本君に優勝旗を供えることができると自負していたのである。
しかし試合というものは戦ってみなければわからないのである。試合内容は前後半を通じて敵をゴール前にくぎづけして、敵はかろうじてドロップアウトに逃げるというような戦況であったが、どうしてもトライをすることができなかった。今にして思えば私達は雨中戦の戦い方をしらなかったのである。ボールが全然手につかぬのに私達はボールをバックスに回して正攻法で攻撃したのである。
これが敵のつけこむ隙となって、敵のゴール前のパスミスを引っかけられて唯一のトライを許し無念の敗北を喫したのである。この試合でFWがホイール攻撃をしておれば勝っていたであろうと三十余年昔の試合が、目の前に浮んでくるのである。諸先輩も多数応援に来られて、一回戦からの私達の試合を見られていたのであるが、この優勝戦でも常に敵陣にて試合を進めている私達を見て、いつかはトライをあげることができるものと軽く見ていられたと思うのである。ハーフタイムの時も0-0の私達に対し「今の調子でいけ」と激励されただけで、雨中戦に対する何の作戦もさずけられなかったように思われる。
試合内容では勝っていても勝負に負ける試合もある。それこそ一生懸命やってはいるのだけれども、あせるばかりでどうにもならぬのである。こういう場合、監督、コーチ、先輩が的確な指示をして試合の運行を変えさせるようにしてやらねばならぬと思う。
石本君の霊と共にある甲子園での戦いを追想して書いてみた。
(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.95)