寄稿 中学21回

全国制覇の夢叶う

高橋 敏夫

昭和十五年は初の全国準優勝、石本善信先輩の不慮の死と福中ラグビー史にとって忘れ得ぬ一年であった。そして暮れの十二月八日はハワイ空襲、マレー半島上陸と大東亜戦争の火蓋が切られた歴史的な年でもあった。

明けて十六年、白水久主将を中心に新チームを編成。メンバーはFWに畑井、萩原、浜田、伊奈(以上五年)。瀬戸、南川、清原、林、河野(以上四年)。バックスに白水、岩戸、高橋、久光、合屋(以上五年)。吉原、久羽、斉藤、永江(以上四年)。鶴丸、加藤、船越、太田(以上三年)といった錚々たる顔ぶれであった。

新チームに課せられた至上命令は全国制覇であることはいうまでもない。そしてそれが石本先輩の霊へ捧げる”唯一絶対のもの”と誰もが信じていた。白水主将は当時のラグビーのメッカであった春日原の近くに育ち、子供のころからラガーへの憧れに目覚めた、いわばラグビーの申し子。それだけに毎日の練習にも限度というものがなかった。これに加え先輩の鍛え方も一段ときびしくなった。それというのも幾多の先輩が夢に見た全国制覇が手の届くところにやってきたからである。

【七人制ラグビー大会】

まず新チームの力量を問う小手調べが五月恒例の七人制ラグビー大会。マーク校は福商、修猷。特に福商は数年来の不振を挽回せんものと捲土重来を期しているとのウワサしきり。われわれはFW、バックスともに足に自信があっただけに練習の時から優勝が脳裡にちらついていた。ところが大会前日になっていちばん心配された雨が降り出した。天気の時はホコリが舞い上り、雨が降ればすぐぬかるみになる春日原。負ける気こそしなかったが、なにか足への自信が湿りがちだった。

あけて四日は大会。われわれの願いが通じたのか、雨はあがり、五月の青空に白雲が走っていた。第一戦(第一回戦不戦勝のため準決勝)は福商。グラウンドは軟弱でところどころにはまだぬかるみ。ウワサの通り福商の動きは鋭く、当たりも強い。FWが足をとられ調子が出ぬうちにあっという間にトライを許してしまった。ハーフタイムの円陣にはたまりかねたように先輩の怒声と罵声が飛ぶ。作戦や技術的な注意は何もない。ただ「ファイト」の一点張りである。前年の主将、加勢田さん(当時西南)は口をとがらせ、今にも飛びかかってきそうな剣幕であった。この先輩の”活”が効いてか、後半はすべり出しから調子がよく、結局6-3で逆転。明善を3-0で破った修猷と優勝を争うことになった。

決勝戦
福中20-0修猷

福中

FW 黒岩 河野 伊奈
HB 岩戸
TB 久光 高橋 白水

修猷

FW 井川 福沢 杉本
HB 栗盛
TB 島田 国松 堀

前半、福中は素早く修猷陣に攻めこんだが、キックで押し返される。四分中央ルースから球を拾いTBパス。白水右に大きくパントを上げ、駿足伊奈が追いゴールポスト横に転がりこんでトライ。

後半、押し気味に試合を進めるうち四分、修猷二〇ヤードルースの球を岩戸、高橋とつなぎ白水右中間にトライ。六分黒岩、河野、伊奈のFW陣がドリブルとショートパスでゴールになだれ込み矢つぎばやのトライ。さらに七分には岩戸、久光、高橋と渡り
駿足の修猷、堀君にタックルされながらも右中間に飛び込み、ダメ押しともいうべき4トライ目をあげる。午後はグラウンドコンディションも良くなり、得意の足が十分生かされ、また白水のゴールキックが全部成功したこともあって20-0の大勝となった。

なお福日(今の西日本新聞の前身) 運動欄には「体力に優れた福中優勢で、殊にバックスの走力が後半に入ると共にますます冴え、ゴールキックの確実さは更に得点の差をひろげ一方的試合に終った」とある。

【第二十四回全国中等ラグビー大会】

昭和十七年、戦雲急を告げるマレー、フィリッピン戦線に日本軍の進撃が続く。トソの酔いもまだ醒めぬ一月二日、毎日新聞社主催の第二十四回全国中等ラグビー大会が開かれた。全国大会といっても時局がら全国を東西に分けた関西大会 (花園) と九州大会(春日原)という異例の大会である。そしてこの二日は日本軍がマニラに突入した日であった。

同大会はわれわれにとって最後の試合である。また過去一年、前年の準優勝の雪辱、石本先輩のためにと猛練習に泣いてきたフィフティーンである。白水主将以下全部員必勝を心の奥で誓っていた。

二日は対戦相手の長崎商が棄権で不戦勝。 四日の準決勝は地元福商との対戦。グラウンドのぬかるみのためFWのドリブルとバックスのキックで相手を押し込み、十一分FWのドリブルを白水拾ってトライ。二三分にはゴール前のルースからFWがなだれ込み、前半は6-0とリード。後半はバックスのパスもよく通り、センター久羽(四年)、バックロー伊奈が1トライ1ゴールをあげ14-0と大勝した。この結果優勝戦は修猷を6-5と苦戦の末に破った鞍山中と対戦することになった。

決勝戦

福岡中9-8鞍山中
(前半6-3 後半3-5)

福岡中
FW 瀬戸・南川・畑井・萩原・清原・林・浜田・伊奈
HB 岩戸・白水
TB 吉原・久羽・鶴丸・加藤
FB 船越

鞍山中
FW 茆河・堂坂・藤原(賢)・太田垣・北原・岡田
福田
HB 藤原(輝)・鈴木
TB 大志田・大塚・満永・五十嵐
FB 阿部

優勝戦の四日は相変らずのぬかるみ。身も切れるような寒風が春日原頭を吹きすさんでいた。地元で開かれる全国大会の決勝とあって全校あげての応援。当時三年生以下は戦闘帽でスタンドにも軍国色がしのびよっていた。応援団長の井上則之君のかざす日の丸の扇に千人の手拍子が凍りつきそうなグラウンドにはねかえる。必勝を期すフィフティーンの顔もこわばり、闘志がいやがうえにもかき立てられる。

前半、午後二時キックオフ。押し気味に試合を進めるうち鞍山左ウイング大志田が抜け出し六○ヤードを独走、不覚の3点を許してしまった。だが福中FWがドリブルで敵陣に攻め入り、二五分白水のPGが成功して同点。調子づいた福中は二八分TBセンター鶴丸(三年)が豪快なハンドオフでタックルをかわして独走、6-3と逆転してハーフタイム。

後半、一〇分鞍山ゴール前のこぼれ球を押えて9-3とリード。しかし敵もさるもの。一七分駿足の大志田が再度トライ、9-8と1点差に迫った。

その後相方死力を尽しての攻防に一進一退、優勝戦にふさわしい大接戦となった。応援団は手に汗をにぎり、時計に祈った。あと五分。あと三分。ついにホイッスル。勝った。はじめての全国優勝である。前年石本先輩を亡くし今一歩で達し得なかった全国制覇の金字塔が打ち立てられたのである。

なお関西大会は北野中が優勝したが、この好敵手と顔を合せることができなかったのが心残りであった。この輝かしい日から四日後の八日が第一回の大詔奉戴日である。八紘一宇、大東亜共栄圏、 そして 「欲しがりません勝つまでは」の合言葉のもとに日本ははてしない道へと踏みこんでいくのである。

以下に当時のラグビー部員を記しておく。

五年生 白水、高橋、伊奈、久光、畑井、浜田、合屋、岩戸、黒岩(故)、萩原

四年生 清原、久羽、瀬戸、南川、林、吉原、永江、河野(故)、斎藤

三年生 鶴丸、加藤、船越、太田

    

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P102)