寄稿 中学24回

戦前最後の全国大会


国武 浩太

大東亜戦争中の全国大会とあって、現在のような派手なPRはなく、新聞の運動欄に一部のる程度でした。過去の情況を思い浮かべ三十年前のことを記したいと思います。

当時私は三年生で、福岡在住の大橋輝男氏と二人レギュラーとして出場したと思います。その頃の練習は学校が終わって、春日原球技場まで毎日出かけてやっていたと記憶しています。全国大会の予選も、また合宿練習も春日原だったと思います。毎日の練習は言語に絶するものでした。先輩安武氏(西南学院)の鍛え方は並みたいていのものではなく、現在では人権蹂躙で問題になるほど激しいものでした。

夕闇が迫るとボールをチョークで白く塗り、猛練習したものです。「こんちくしょう、曲がり安!(安武
氏のアダ名)こげえ鍛うなら帰りにくらあすぞ、バカタレ! バカチン!なにくそ!」と、お互いに口ではぶつぶついいながらも絶対服従で耐えたものです。

だが一面、猛練習後のグラウンドの隅での仲間との語らいや水で体を拭いた時の夜風の気持よさ、学校にバレないように緊張してやったワルソウの数々等なつかしく想い出されます。 練習の帰りも傑作でした。今の西鉄大牟田線の電車の中、駅で乗ると同時床にごろ寝。福岡駅に着いた時は、グウグウいびきをかいて寝る始末、車掌がおこしに来るまで眠りこんでしまったことも何回となくありました。

まあ、それやこれやの努力の甲斐があって全国大会に出場できとた思います。その時のメンバーを想い出し、ついでにアダ名も記しておきます。

主将  清原耕三(キヨタン)
副将  久羽博(ワーチャン)
五年生 林四郎(ボーズ)
    瀬戸誠(マコチン)
    南川昌一(ショーチャン)
    永江寿
    斎藤守高
    吉原茂美(ザン)
    高松欽吾(ボーイ)
四年生 加藤仁(ジンタン)
    鶴丸民夫
    船越福重(ヨゴレ)
    広川久男
三年生 国武浩太(クニ)
    大橋輝男(イズ)    

大会では、快調のペースで勝ち進み、宿舎に引き上げて夜おそく一室に集まり、タバコをいっぷくというところで引率の部長に見つけられ、こっぴどくお説教されたのも想い出のひとつです。

私達の頃の、最大の傑作は優勝戦でのことだと思います。第二十五回全国大会、戦前最後の大会の決勝は、天王寺中学対福岡中学の対戦でした。昭和十八年正月の七日か八日だったと思います。

寒く冷たい小雨の降る中で行なわれ、私達福中生は気力充実、終始押し気味にゲームを運んでいたのに、後半僅かのスキから1トライを奪われ、終盤1ペナルティーゴールをあげられ、結局惜敗しました。試合内容では負けた気がしませんでした。

いよいよ表彰式です。福中は全員くやしさでグラウンドに坐り込み、涙ぐむばかりでした。優勝旗が授与された後、準優勝旗の授与ということになったんですが、だれ一人出てゆかなかったのです。とうとうたまりかねて部長が受取って来たものと、小生の頭の中には刻まれています。主将のキヨタンはじめ全員のいうことがまたふるっていました。
「準優勝旗はいらん。優勝旗ならもろうてよか。」

いま考えると、自分たちの力不足で負けて優勝できなかったのに、準優勝旗はいらん、優勝旗ならもらうとはなんと虫のよい話ではなかったろうか。大会史上初めてのモタモタ表彰式だったかも知れません。いま思うと、はずかしいような、なんとも表現しにくい感じですが、当時の私達は、それほどに、「日本一」「全国制覇」を思いつめていたのだ、ということになりましょう。

練習をあがる時の合言葉は常に「全国制覇」だったのです。思い出は、ただなつかしく、また感無量の一語です。当時の人人もいいおやじになって、頭にはそろそろ白いものがちらつくようになっていると思います。
八月五日、福高ラグビー五十周年記念式典の日、当時の人たち、久羽氏、南川氏、瀬戸氏等とお会いできました。二十数年ぶりの再会で、なぜか心の底からいい知れぬ感慨を覚えたものでした。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P117)