寄稿 中学26回

部再建へ

西村 強三

昭和二十年八月十五日。戦争は終った。予期したと否とにかかわらず、敗戦の事実はまさに青天の霹靂であった。工場動員の生徒も、軍にあった者も、ひとしく無量の思いを抱いて母校へ帰った。あるいはなす術を知らぬ者もいたであろう。この夏、暑さはまた殊のほか厳しかった。

終戦直後、福中運動部の活動が、いつ頃、いかにして再開されたか、もはや確かな記憶はない。ただ荒れ果てた校庭で、無心にラグビーボールを追う数人の姿に、私はかつて目にしていた放課後の校庭の賑わいを想い起した。九月新学期の始まった日であった。

終戦前後のラグビー部の詳細を最もよく知っているのは、戦時中からの部員であった岩井 (昭和十七年入学。当時箱崎在住。四年より明大進学)であると思う。本史編纂に際し、岩井の所在を探したが得なかったので、以下私の記憶ではあるが、その頃のことを記しておきたい (因みに、私は昭和十六年入学。終戦の年の九月半ば入部、当時四年。戦時中、卒業繰り上げで五年生はいなかった。二十一年一月退部。同年夏再入部)。

前記のように、終戦の年、九月の登校初日に早くも練習を始めたのはラグビー部だけではなかったかと思う。その時、僅か数人ではあるが、どのようにして部員が集まったかは知らない。

戦時中、「部」としての組織的な活動がなされたのは、昭和十八年秋までではなかったろうか。この頃、予科練(海軍甲種飛行予科練習生)に行った佐井川速夫、武藤基義、河野昭、友田富士人(いずれも昭和十六年入学)らが、入隊直前まで練習を続けていた。

その後、戦局の熾烈化に伴い、飛行場造りなどの勤労作業が相次ぎ、十九年春からは、昼夜を分たぬ軍需工場への動員によって、一切の「部」活動は全面的に止んだ。

終戦。博多の街は焼土と化していた。帰った母校は荒れ放題、人の心はうつろであった。

岩井はいち早く部の再建に着手する。まず部員集め。ぼろをまとい、お粥をすすっていた時である。難渋したことはいうまでもない。岩井は一人一人説得するような面持で勧誘して回った。過去一年半の間、全く途絶えた部の活動を再開しようというのである。諸般の事情は最悪、しかも集まるのは全くの未経験者である。部の再建というよりも部の創設に近かった。

しかし、永年の伝統があった。幾多の先輩によって培われた無形の力があった。そして、幸いにも用具があった。手入れのゆき届いたボール、ポンプもニードゥルもあった。試合用のユニフォーム(戦時中、染料不足のためか、白地に赤の縞となっていた。昭和十八年一月、最後の全国大会に使われたもの)は綺麗に洗濯され、きちんとたたんで、しっかりと梱包してあった。国の前途ももはや定かでなかったあの重大戦局のさ中、どういう人の所行であったのだろうか。やがては訪れるであろう新しい日本の将来を祈り願われた部長先生であったか、あるいは断ち難いラグビーへの情熱を、はるかな後輩へ託して出陣された人たちであったか。これらの品々には、息もつまるような状況に生きた人たちの願いと執念が籠められていた。ただ私たちは、当時それに気付くほどの読みもゆとりもなかった。

岩井の熱意がみんなを動かしたのか、あるいは茫々漠々の空しさをただ一つのボールに託そうとでもしたのであろうか。みずから希望して入部する者もでてきた。人数も整い、一応の体裁ができたのは、九月半ばであった。この間、復員の早かった南川さんや、永江さんら先輩の部再建への憑かれたような指導のあったことはいうまでもない。

こうして組織的な練習が再開された。しかし、なにしろ岩井と一、二名(三年の大鳥、二年の加藤)を除いてはラグビー部生活は初めての連中ばかりである。以前に、校庭でのラグビー部の練習を見たり、春日原での試合の応援に行ったり、あるいは体育の授業で教わったりして、ラグビーに対する一応の認識はあったにしても、本格的にプレーしたことはなかった。楕円のボールがイレギュラーに転がるのに、いまさらのように驚いていた。

柔道着の袴を着けた者、工場動員のときの油のにじんだ作業着の者、いでたちは種々様々、異様でさえあった。勿論はだし。ズックなど望むべくもなかった。コチコチに固化したグラウンドは足に痛かった。親指の付根が切れて、みんなほう帯を巻いた。その布片もすぐに磨り切れた。練習後は先輩の指示で、グラウンドに一列横隊に並び、小石やガラス片を丹念に拾い、また凹凸をならしたりした。

『勿論はだし。ズックなど望むべくもなかった。』

粥腹はさすがにこたえた。次々と復員、来校される先輩は多かった。連日三軍を叱咤するような号声が響いた。千代原頭に喊声があがった。伝統二十年、福中ラグビー部の再出発であった。

意気はなお盛んであっても、客観的条件が物事を左右することが多いらしい。折角集まった人数も、日がたつにつれて櫛の歯をひくように減って行く。今日からみれば、想像を絶するくらい日常の生活に事欠いていた時代である。衣・食・住は勿論、通学の交通機関も極めて貧弱化していた。部員のなかには、疎開した郊外からの通学に多大の時間をかけている者も少なくはなかった。

二十日たち一月たつうちに、常時練習に出るのは限られた少人数となってしまった。勿論サボる者もあった。これを埋めるために躍起になる。しかし永くは続かない。入部したその日に骨折する者、黄疸になる者。事故も相次いだ。九月の再出発以来、二カ月にして、部はまさに泡沫のような存在でしかなかった。

この間、そしてこれ以後も、部の中核となってその活動を支えていったのは、宮下、土屋、須藤、麻生、宗、高橋、大鳥、原井、池田、志波、吉田、村上らの三年生組であった。この一団は気合もはいり、練習にも物狂おしいように意欲的なものがあった。人員不足でややもすると低迷しがちなこの胎動期の部に活気を与え、その活動を着実化させていった。そして、話は先のことになるが、昭和二十二年正月、西宮における戦後初の全国大会優勝の原動力ともなった。この一団の労は讃えて余りあろう。

このような状態で昭和二十年は暮れた。新年の一月であったと思う。四年生の部員全員で申し合わせて退部することにした。理由は「練習不熱心」であった。先輩のお説教が直接の動機であったが、みんなで大いに反省し合ったことを覚えている。以後、前記三年生組を主体に土屋 (弟)、加藤、右田、柴田ら若干の二年生を交えて、新しい部の活動が始まる(私も退部したので、以下再入部するまでの記述は部外者としてのそれである)。

この新発足の部には、非常な結束と前にもまして物凄い気迫が傍目にもみられた。極寒の二月、雪の校庭を走っていた。日曜日も祭日もなかったようである。この頃、復員してグラウンドに来られる先輩はますますふえていた。学年が改まり、三年生は四年生となる。弛まぬ練習の甲斐あって、五月九大工学部グラウンドで行なわれた県内中等学校七人制大会に優勝している。

やがて夏。ひょんなことで、私は再びラグビー部に籍を置くこととなった。きっかけはたしか、福中クラブの総会が九大グラウンドであり、その際OB対現役の試合に加わった時だったと思う。どうしてこんなことになったのか、今でもよくわからない。前記のように四年生 (新五年生) 全員の申し合わせで退部したのであるから、私一人それを破るつもりはなかったのであるが。現役部員が足りなくて、丁度私が箱崎にいたので宮下が呼びに来たような気もする。こうして、翌日から練習に参加した。一緒に止めた連中に申し訳ない気がした。なんとなくうしろめたい気持であった。主将をやれといわれた。否応はなかった。すでにでき上ったチームの上にあぐらをかくようなもので、面映ゆい気持もあった。しかし、居心地はとてもよかった。

この頃、全国大会復活の報がすでに知らされていた。目標は決まっていた。全国制覇である。

練習場所は九大の工学部グラウンドであった。五年生の藤も再入部した。夏休み中で、弁当を持って行き、午前と午後練習した。新島先輩も時々顔を見せられた。村上さんの裂帛の声がビンビン飛んだ。毎日多くの先輩が見えた。現役一人に一人以上のOBが付き添って、それこそ手とり足とりの指導であった。西南も九大で練習していた。西南には、私たちが終戦直後より指導を受けた南川、永江さんをはじめ、斉藤、鶴丸、加藤さんといった面々がおられた。毎日、合同練習を行ない、練習が終ってからもまた個人指導を受けた。

秋になった。国体の予選で修猷館に敗れた。これ以前にも何回か修猷に負けたように記憶する。この試合で、タッチジャッジをされていた南川さんの目が、ギラギラと喰いつくように光っていたのが強く印象にのこっている。 全国大会の予選ももう目前に迫っていた。なにかいらだつようなものがあった。大袈裟な言い方であるが、一切を対修猷戦に賭けた気持であった。授業の休み時間も、誰からともなく集まり、円陣を作ってパスの練習をしたりした。OBのお陰ではじめてスパイクシューズを新調した。試合用のジャージーはもう相当痛んで、十五着は揃わなかった。パンツは試合用の新しいものを作った。この頃、予科練帰りの古川(昭和十五年入学) と水山 (昭和十六年入学)の五年生二人を新たに迎えた。

十一月、いよいよ九州予選が始まった。一回戦で修猷館とぶつかった。苦戦の末、やっと勝った。手ばなしで喜びあったが、それも一瞬の感動でしかなかった。九州代表の決定まであと二試合あった。そして、その向うには全国大会があった。

十二月九州代表に決定した。 意気また新たなものがあったが、対修猷戦を前にしたような気負いだちはなかった。これから下旬の全国大会出発までの間が、気持ちの上でも最も着実な練習を続けることができたように思う。

暮れもおしつまった三十日、三角卯三郎部長、中村孝先輩に引率されて西宮へ向けて遠征の途についた。現役総勢十九名。引揚列車であった。宿舎の中山寺に着くと、土屋が早速練習しようと言い出した。中村先輩の指示で、希望者のみお寺の空地を走った。そのほかの者はお寺の餅つきを加勢して、みる間につき上げた。夕刻、東西大学対抗ラグビーで西下中の、村上、安武、久羽さんらが、新島先輩と一緒に見えた。村上さんは練習着にオーバーを引っ掛けたままであった。

明けて二十二年一月二日、全国大会開幕。入場式でみると、ジャージーの揃っていないのは私たちのチームだけであった。しかし別になんとも感じなかった。

一回戦(対同志社中学)。着実に得点して36-3で快勝。二回戦(対天王寺中学)。我々と同じような型のチームで最も苦戦した。前半危い場面もあったが、よく持ちこたえた。後半1トライで3-0で制勝。優勝戦(対神戸第二中学)。大型のチームであったが、比較的ゆとりのある試合であった。全員のびのびとプレーしていた。6-0で優勝。

ノーサイドの笛を聞いたときは、さすがに嬉しかった。円陣を組み、エールを終ってから、思わず部歌を歌い出した。係りの人に止められた。まだ表彰式前だったのである。三角先生、新島先輩はじめ諸先輩の破顔に、はじめて正月のくつろぎを見た。スタンドでは西南の人たち(全国専門学校大会が花園ラグビー場で開催されていた)が躍り立っていた。一回戦からずっと応援に来てくれた宿舎の和尚さんが、大きな日の丸の旗をゆっくりと振っていた。

昭和22年1月 第26回全国大会優勝 ばらばらのジャージで戦った

一月八日帰福。 博多駅には諸先生、多数の先輩、全校諸兄の出迎えがあり、喜びを分った。市役所まで行進。戦後初めての集団の行動で、進駐軍との折衝が大変だったらしい。応援団長の川添豊明君や徳田倫甫君らが、膝詰談判で許可を貰ったということである。

私たちは幸運にも優勝することができた。諸先生のはげまし、OBの物心両面よりの援助と指導、学友諸兄の声援等々が、優勝へのつなぎとなったのはいうまでもない。

終戦直後の部の再編成以来、歩いてきた道は困難ではあった。そして、いまここに特に記しておきたいことがある。みんなで申し合わせて退部したあの四年生組(学年が改まって五年生になっていた)のほか転校など、行途半ばにして部を去っていった面々である。なかには、安易な気持で入部し、落伍した者もあったではあろう。しかし、そのほとんどは、やはり諸般の悪条件の重なった結果である。いま、私のざっとした記憶だけでも、その数は三十名に上る。ともに一丸となって目的遂行への過程は歩めなかったが、部再建の道標ともなった人たちであると思う。記してその労を謝したい。

試合のことなど

一、終戦の年の秋、九大グラウンドで修猷館と試合した。初めての対外試合であった。試合前、活気鋭意のOBから大いに気合いをいれられた。キックオフ。ボールは飛んだが、あちこちで異様な光景が起った。組んずほぐれつの乱闘である。制笛一声。全員グラウンドに正座させられて、レフェリーの大目玉を喰った。ただ終りに「この気合いはよろしい。忘れるな」といわれた。

一、亡くなられた梅津義雄先輩のことは、忘れようとしても忘れられない。健康をそこねておられたが、毎日野良着姿でみえた。とてもきびしかった。「鬼の梅津」と呼んだりした。当時、九大グラウンドは草がすぐに伸びて走りにくかった。梅津さんは馬を連れて来て、喰わせ、自分は黙々と鎌で刈っておられた。練習後、腹を空かせた私たちに、純白の握り飯をモロブタに詰め、自転車にのせて持って来られた。鬼の心を知る思いであった。全国大会出場の決まった頃は、再び病を得て古賀の療養所に居られた。報告に行ったら、ただ「よかった。よかった」と何度も繰り返してとても満足そうであった。全国大会の帰途、古賀の駅から私たちの汽車に乗り込んで来て、博多駅に着くまで、やはり「よかった」を連発して喜ばれた。その後、改めて試合の状況等を報告に行った時は、幾分疲れ気味のようであった。 梅津さんの訃報を聞いたのはそれから間もなかった。二月の寒い日であった。葬儀は海門戸の一光寺で行なわれた。その前夜、私は兄に書いてもらった弔辞を何遍か写した。きびしかった梅津さんであるが、今に残る思い出は、飄々として馬をひき、自転車を押して来られた野良着姿の梅津さんである。

一、私たちの仲間も二人死んでしまった。大鳥と柴田である。大鳥はみんなから「ゾウ」と呼ばれていた。どうしてそう仇名したか知らない。悠揚迫らぬ大人の風があった。部再建当初からの部員であった。決して弱音を吐かなかった。みんなフウフウ言っている時、見当違いな冗談をとばして、大笑いさせるなど剽軽なところがあった。ずっとセカンドローをしていた。中央大学に進んだ。昭和三十二、三年頃、今川橋で薬局を開いていた。私は西南学院に勤めていたので、よく遊びに行った。夏はパンツ一枚に白衣を着、店先で詰将棋を一人楽しんでいた。その後、私は東京へ移り、大鳥の訃報を聞いた。

柴田は最下級の三年生(全国大会出場当時)であった。当時、三年には加藤、土屋 (弟)、右田がいた。柴田はスクラムハーフの要員であった。突拍子もないヤンチャ坊主であったが、体がよく動き、部の雑事などすすんで引き受けていた。全国大会での宿舎、中山寺の駅前に小さなお菓子屋があり、飴玉や羊かんを売っていた。当時、博多では、まだ菓子類は思うように手に入らなかった。私たちは無性に食った。柴田は毎日、朝と夕方菓子を買いに行った。何日目かに「もうノウなった」と帰って来た。うらめしそうな私たちの顔をみて、黙ってどこかへ出かけて行った。随分経って風呂敷いっぱいの菓子を抱えて来た。次の駅、その次の駅と菓子を探していたらしかった。私が卒業してからも、時々遊びに来た。おふくろと仲がよかったようである。その後、自衛隊に入ったり、胸を悪くしたりしていた。最後に会ったのはその頃であった。

一、全国大会予選の対修猷戦が終って暫くしてからのこと。練習の帰りにたまたま試合前夜のことを話していた。宮下が改まった面持で「前の晩はユニフォーム(といってもこの頃はもうつぎはぎだらけになっていた) その他スタイル一切を綺麗にたたみ、磨き上げたスパイクをその上にのせ、枕元に置いて寝た」という。「実は俺も……」と大笑いした。なにか祈りたい気持だったのである。ずっと後で聞いたことあるが、死んだ柴田は、全国大会出発の朝、筥崎宮へ詣って(柴田は馬出に住んでいた)お賽銭を「いっぱい」あげて来たそうである。思いはみんな同じであったのであろう。

一、全国大会宿舎でのこと。着いた日であった。土屋(弟)や柴田、右田ら三年生が「ここの便所は爆弾投下のごたあ」とわいわい騒いでいる。便所に行ったらなるほどそうである。お寺は坂の斜面に建っていて、便所は丁度二階にあるようになる。従って下の溜りまではかなりの距離があり、かすかではあるが、ヒューンと音を立てて落ちて行く。初めての経験でみんな面白がっていた。

一、部長の三角先生は、試合のない日、三年生を連れて三宮の闇市まで、牛肉などを買出しに出かけられた。相すまない思いで、師の心を噛みしめた。三角先生と闇市、今でもピンとこないが、大へんな御苦労をかけたものである。

一、優勝戦のときのこと。トスのあと、レフェリーから「福中は十四人しかいない」と指摘された。「誰かな」と思っていたら、志波がグラウンドの隅から懸命に走って来た。便所に行っていたのである。

一、練習はほとんど九大の工学部グラウンドでしたが、時々よそへ教えてもらいに行った。大牟田の三井染料へ行ったことがある。練習が終ってすき焼きを腹一杯食べさせてもらった。 当時、三井には安永先輩がおられたが、食糧事情の悪かったあの頃、いろんな方が、あれこれ気をつかって下さったものである。

一、亡くなられた斉藤先輩からは、「夜、寝床に入って眠りつくまで、足先でボールをあつかうように」といわれた。「常時練習」との教えであった。 永江さんは、道を歩きながらよく小石を拾っては蹴っておられた。またタックルの心構えとして、前から来る人、自転車、自動車にも、いつ飛び込んだらよいか、そのタイミングを常に心がけておくように、また風呂の中では、握力を強くするため指の屈伸を、電車の中では踵をあげて立ち、吊り革には指一本か二本でつかまるようにとも教えられた。

一、私たちの試合方法はキックアンドラッシュに徹した感があった。相手陣に入るまでは、攻撃ラインも非常に浅く、麻生の好キックで大きく地域を奪い、二五ヤードに入ってはじめて深いラインを布いた。全員タックルだけはよくやった。防禦は固かったと思う。タイトスクラムで敵ボールのときは、宮下がフライングハーフに出て、相手の出足をスクラム周辺で押えた。今から考えると、私たちの技術は戦前、戦中の水準にまでは回復していなかったと思う。新島、中村先輩もそれを見越された上での戦法であったかもしれない。

一、全国大会出場が決ってからのことであった。九大グラウンドに見知らないOBが来られた。初めての方であった。うっかりしてその時名前をお聞きするのを忘れた。それから後もお会いする機会がなかった。その方から「人生意気に感ず、功名誰か復た論ぜん」ということを知っているか、といわれた。これが唐の魏徴の詩の一瞬であることを知ったのは、ずっと後である。名前も告げずに去られたその方の姿は今もはっきりと憶えている。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P136)