寄稿 中学27回

闘球よりラグビーへ そして全国制覇

中学27回生座談会

これは福中・福高ラグビー史編集部の依頼により、第二十七回生宮下、土屋、麻生、吉田、村上、宗、高校第二回生土屋(弟)、右田の出席をえて二十七年前の全国大会優勝までの経緯を皆で回想しつつ座談したものを、挿話をはさみながらまとめたものである。

昭和二十年八月十五日、日本は敗れた。我々は学徒動員より、また学びの校舎に帰った。しかし中学三年九月学校に戻ったものの、校内は敗戦による虚脱状態免れず、ちまたは物資の極度の欠乏、そしてこの年六月十九日の空襲で市のほとんどが焼け、娯楽というものは映画すらない時代だった。この時我々は青春の吐け口を闘球へと求めていった。

闘球とは戦時中ラグビールールを一部改め、敢闘精神を養うため軍隊にて推奨された球技の名称であり、一般でも英語使用廃止のためラグビー部は闘球部と呼ばれていた。

 どうして皆ラグビー部に入ったとかね。

宮下 進駐軍の命令で柔剣道部が解散させられたけん、ラグビ一部へ入ったったい。

土屋(兄)  俺なんか上級生から”ラグビーは相手をくらあしてもけってもよか”といわれたもんやけん喜んで……。

麻生 俺は陸上競技部からやが、上級生は予科練帰りがいっぱいおったね。

このようにして部員は集まり、福中ラグビー部は復活し、戦時中とだえていた宿敵修猷館との対抗戦が、秋九大工学部グラウンドにおいて行なわれた。しかしこの試合たるや全くさんざんであった。一、二カ月の練習でルールもほとんど知らず、スクラムも満足に組めず、相手をなぐっても蹴飛ばしても、ボールをゴールに持って行けと闘球精神そのままで出場した我がチームは、キックオフと同時に修猷館選手を投げ飛ばし、それがきっかけで大乱闘となり、審判より一時ゲーム中止し、大叱責を受け、その後ゲーム続行するも大惨敗。麻生は脳震盪で倒れた。

吉田 この試合の後、応援に来た連中から、中川、志波、宗達が入部したとばい。

宮下 その後復員した南川、永江両先輩が主として組織だったアタック、ディフェンスを教えに来てくれたとぜ。

麻生 加勢田さんが将校服に荷物をかついで、グラウンドの向うを乗り越えて、練習してる我々の所へつかつかと来て俺は二十回の加勢田太郎だ。今復員して家に帰る途中グラウンドをのぞいたらお前らがラグビーやっとるんで嬉しか”と挨拶さっしゃった時はびっくりしたね。

 しかしあの当時ユニフォームはメリヤスのシャツに襟をつけ、裸足で、食べるものはいもか、自家製のぐちゃぐちゃのパンか、大豆カスで、よう練習しよったぜ。

土屋 裸足といえば、麻生なんかあれでゴールをびしびしきめよったもんね。

麻生 ラグビーが好きで、あの福中の堅いグラウンドを、真冬の雪の中でもあかぎれの裸足で走りよったもんな!

村上 ボールといえば明治大学からもらった楕円形が円形になりかけたものか、進駐軍のアメリカンフットボールのお古やったな……。

南川、永江両先輩のコーチで、放課後、そして日曜日は二時より毎日陽が暮れるまで、正月の日だけ休み、雨の日、雪の日関係なくグラウンドを走り、ボールを追っかけた。両先輩よりラグビーの基本はタックル、セービングと、あの堅いグラウンドでフォワード、バックスに分かれ徹底的に鍛ってもらった。先輩の〝ようし〟の声がかかるまで何人かは痛さと、うまくいかない口惜しさに涙をポロポロ落しながら……。

かくして春となり我々も四年生。新緑の五月、福岡県中等ラグビーセブン大会に出場し、見事優勝した。この大会に嘉穂中チームのみスパイク持参するも他のチームは全員裸足。それ以来秋の国体予選に修猷館に延長戦で敗れるまで、連戦連勝のチームに育っていった。

土屋 あの修猷戦でもタイムアップ寸前に須藤がトライしたんやけど、ボールにゴールの石灰がついて、今のルールでいけばトライやけど、あの時はオンザラインはトライじゃないていわれたな。俺達はようルール知らんしな。

宮下 あの敗戦が薬になって全国大会で勝ったとぜ。

吉田 あの時の修猷も強かったばい。フォワードには城島とか土比良とか……。

麻生 バックスでは渡辺、副田、森山なんかいたしね。

南川、永江両先輩は西南に入学。当時の西南は九州学生チームの最強で、特にバックスには本城、斉藤、加藤(兄)、鶴丸、永江と優秀な選手を有し、監督は九州ラグビー界の重鎮、速水伝吉氏であった。西南も九大工学部グラウンドで練習し始めたので、我々もその胸をかりるため、梅津先輩に率いられて毎日九大グラウンドに通った。夏休みはもちろんのこと、試験中も連日全国制覇を夢見て、パス、ドリブル、ダッシュ、と猛練習。へばったものはバケツの水を頭にブッかけられ鍛われた。そして星を仰ぎながらボールを磨き、汗で重くなったユニフォーム、パンツをバッグにつめ、その日のうまくいった事、先輩にどなられた事、おもしろかった事など話しながら疲れきって家路に向った。

麻生 あの当時はフォワードは強かったからまだよかったが、バックスは梅津さんによう鍛われたばい。

土屋 俺も伝ちゃんがフロントローよりスクラムハーフにもって行ったとばい。ランニングパスだけでもダッシュで二十回くらいしよったな。

 冨永さんや斉藤さんは会社の帰りに夕方から来て、改めて練習のやりなおしで、吉田なんか、フルバックで徹底的にやられたね。

宮下 セカンドローの大鳥が練習中ふきだすもんやから”何ばしようかい”とどなったら、”フロントローのパンツが破れて中が丸見えでぶらぶらゆれとって押されんとたい”というた時は皆笑ったな。

麻生 ようパンツの下からフンドシをなびかせて走りよったたい。

吉田 夏頃やったかね、五年生がおとなしい藤さんと水山さんではしめしがつかんので西村さんが入部され、主将になられたのは。古川さんもその時やったかね。

二十一年初冬全国大会予選が始まり、その時より各チームスパイク使用。今までの裸足になかなかなじまず、却って走りづらい有様。それでも嬉しく、ますます練習を重ね、宿敵修猷館を戦後初めて倒し、九州代表となる。グラウンドにて選手、先輩、応援団肩を組み、感激の涙を流しながら、高らかに”千代原頭緑をこめて”を歌う。予選中途にして梅津先輩病に倒れられ、監督に中村先輩を迎え、部長として三角先生を仰ぎ、暮れの三十日、西宮へ出発。物資相変らず乏しく、闇米を持参し、汽車は急行はなく鈍行で三宮まで十八時間を要した。宿舎は宝塚沿線の中山寺駅の中山寺の本堂であった。試合は全国選出八チーム。西宮ラグビー場で二日朝入場式。他の七チームは皆揃いのユニフォームにて凛々しく、我が福中チームのみ、先輩の大学時代のものなどを借りた。てんでんばらばらの寄せ集めであった。式後の練習場での各チームのパスワークを見るに及んで、皆その旨さに感心したものであった。

しかし反面この一年半、毎日各先輩よりたたき込まれた〝ラグビーは闘志だ、タックルだ!”の言葉を思い出し、福中ラグビー魂で倒すんだとファイトを燃えあがらせた。

第一回戦、京都同志社大学付属中学。戦法は敵陣二五ヤードに入るまではSO麻生のキック。敵ボールは必ず敵陣にて必殺のタックル。二五ヤードラインを越えて、バックスの攻撃、又はスクラムハーフ土屋のサイド攻撃よりフォワードでなだれ込むという単純明快なものであった。この試合は36-3と楽勝、大いに自信を得た。

第二回戦はラグビー界の名門天王寺中学。この大会優勝候補の筆頭。この試合に勝てば優勝出来るぞ〟と激励され闘志満々。さすが相手も伊藤、岡、門戸と名選手を有し、白熱のゲーム展開。3-0にて辛勝。

優勝戦は神戸二中。一昨日の天王寺戦の余勢をかって望むも、二中もさすがに強く、一進一退の時、敵我がディフェンスラインを破り独走態勢。あわやトライかと観念の時、主将西村さんの猛ダッシュ猛タックルにコーナーフラッグと共に飛びドロップアウト。二十七年後の今でも目に浮ぶ物凄いタックルであった。これによりぐっと盛り返し、6-0にて優勝。ここに福中ラグビー部の念願であった全国制覇を成し遂げたのであった。

宮下 俺たちが勝ったとは今でいうキックアンドラッシュ戦法がチームカラーに合ってたし、タックルにつぐタックルで相手のうまさを出させんやったからばい。

吉田 土屋なんかパスよりもぐるのが好きで、つぶしにきた敵を背負いながら走りよったもんな。

麻生 しかし予選、大会を通じて相手をノートライに押えてきたのは、皆ようタックルしよったとよ。

 あげなスタンドのあるグラウンドで初めてして、観客の多いのにびっくりしたな。

村上 やっぱり福中は名門だけあって、関西でも福中の応援は多かったばい。

土屋(弟)  我々は合宿で風呂炊きしたが、あの年は寒かったな!

右田 そうよ、あんたたちは熱いとかぬるいとか勝手な事ばかしいうしな。

土屋(兄)  優勝の後、心斉橋で先輩の大坪さんが皆をスキヤキ食べに連れて行ってくれた時は嬉しかったね。

右田 今まであげん旨かと食べた事なかったもんな。

福中チーム戦後初優勝。 当時優勝旗はなく(戦前台湾チーム優勝後、戦争突入にて大会中断のため)優勝楯受く。博多駅頭に今村校長以下諸先生、諸先輩の大歓迎を受け、進駐軍よりの集合禁止令にも拘らず、上級生川添さんはじめ、皆さんの努力により校旗、 優勝楯を先頭に、池田団長はじめ応援団と共にはれがましく駅より天神岩田屋祝賀会場まで徒歩にて市中行進。
市民の皆さんにも祝福を受け、ここに戦後八幡製鉄(現新日鉄)、九電、三井化学、西南学院と共に九州ラグビー王国の魁としてその一頁を開いたのである。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P136)

麻生純三(中27回)福中→明治大→福岡倶楽部 日本代表cap2 麻生静四郎(高5回)の兄 日本ラグビー伝「麻生純三、知られざるスーパーブーツ」(日本ラグビーデジタルミュージアム) 

土屋英明(高1回)福高→明治大→大映 日本代表cap 1。弟の俊明と共に、兄弟で同一試合において初キャップを獲得。「ラグビーの土屋兄弟」として有名。

土屋俊明(高2回)福高→明治大→八幡製鉄 日本代表cap 12 日本代表主将・九州ラグビー協会会長・日本ラグビー協会副会長を歴任。