ラグビーだけが人生よ
和田正夫
「福中・福高ラグビー五十年史」を編むにあたって、当時のことを想い出すままに綴ってみることにいたします。
福中ラグビー部が呱々の声をあげたのは、私が中学五年の時でした。当時、同級生で入部したものは、岩橋二郎、尾碕武夫、それに今は亡き山野仁の三君で、私ごとき勉強も出来ないうえにすん足らずのチビに入部の勧誘などあるはずがありません。グラウンドの隅っこで、当時では派手なダンダラ縞がこれも当時では珍しい楕円の球を追う様を指をくわえて見ていたものです。
試合の時の、あの淳ちゃんの姿もとても印象的なものでした。敵のゴールポストのど真中にデンと胡坐をかき、腰から外したサーベルを右手でつき立て仁王様のように厳しい表情で睨んでおられたものです。
福中卒業後、西南学院に進学するや、早速高田大四郎君等と図りラグビー部を創ることにしました。柔道部、相撲部、野球部などからもこれぞと思う有力選手を引抜いたものです。私はチビではありましたが、小学校の頃から金棒、木馬、逆立、空中転回等アクロバティックな運動が好きで、自らスクラムハーフを志願、一方高田君がスタンドオフを引受けてくれることになり、以後二人が中心となって創部時のチーム作りに努めることになりました。以来、六十齢を過ぎる今日まで万年スクラムハーフというわけです。もちろん九州ラグビー倶楽部においてもしかり、福岡倶楽部においてもしかり、迷惑倶楽部においてもしかり、運のツキといったところです。
その当時を振りかえってみれば、まさしくラグビー教にとり憑かれたようなもので、腕を折ろうが、 肋骨を折ろうが、幾針も縫う大怪我をしようがそんなことにはお構いなしの明け暮れであったように思います。ある時、そんな私を扱いかねた両親が小遣い銭をストップ、新聞配達や郵便配達のアルバイトで得たお金を小遣い銭にしたこともありました。岩岡太郎君と一緒に新年の郵便配達をしたことも今となっては楽しい想い出です。
昭和六年西南卒業の年には遂に念願叶って九州・山口・台湾地区の代表校として大阪花園で開催された晴れの全国高専大会に出場することができました。おそらく今日の西南の伝統はこの時生れた、といえます。その時、嬉しかったことの一つに、どの大学にもどの高専にも福中卒業のラガーがおり、その中核部分を占めていたことです。母校とは、ほんとうにいいものです。
西南卒業後は、これもラグビーをしたいばっかりに、当時としては割合に自由のきいた保険会社の外務員の職を選びました。当時、九電の前身である東邦電力福岡支店の営業部長をされていた横山通夫氏(慶応OB・現中部電力会長) 等、 ラグビーの大先輩達に私の保険の仕事を手助けしていただき、 おかげで心おきなく会社をサボリラグビーに耽けることができました。
昭和十三年には満州国に転勤となりましたが、 この異国の地にも福中OBがおり、驚喜したものです。
その後、年の功もあってか、長崎県ラグビー協会の初代会長に推されたり、西南ラグビー部の会長、福高ラグビー部の顧問格として奉られたりして今日に至ったわけですが、思えば、もし私が福中を卒業していなかったら、あるいはまたラグビーをしていなかったら私の運命も大きく変わっていたことでしょう。 苦楽ともども私の想い出のすべてはラグビーと共にあります。齢既に六十五歳、残り少くなった余生を、福高ラグビーはもちろんのこと世のラグビー界のために捧げられれば、これにまさる喜びはありません。
過ぎし当時のことを想いつつ、朝夕東公園を小走りしている今日この頃です。
福中・福高ラグビー部の健闘と永久隆盛を祈念して擱筆します。
(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P20)