寄稿 中学6回

福高ラグビー倶楽部会長

中学6回生 今村嘉藏

福岡県立福岡中学校の創立が大正6年で、6回卒業の私が入学したのが大正11年である。

校舎がまだ木造の2階建の頃である。冬は黒、夏はねずみの制服に、靴は編上げ、黄色の巻脚絆。登校帰校には巻脚絆を必ず巻かねばならなかった。全く軍隊同様。挙手の礼も強いられたのである。

質実剛健を校風として、 福中魂を育成しようと一生懸命だった高宮校長はじめ諸先生方の協力一致の努力の気構えが、私ら生徒にも、時にふれ折にふれ、感応するものがあった。特に軍事教官陸軍大尉中園淳太郎先生、松岡・工藤両体操教官の躾ぶりはきびしかった。

私共の入学当時には、学業においては、高校進学率においても修猷館に劣らない立派な学校であった。

しかし事スポーツに関しては、柔道も剣道もテニスもすべての競技に修猷館に勝てなかった。修猷館の伝統には勝てなかった。

修猷に勝ちたい。何か一つでも勝つ競技を持ちたい。そして福中生徒の劣等意識を無くしたいというのが、中園淳太郎先生の執念であったようだ。

先輩の古賀・古川両氏(当時早大学生)が、福中にラグビーフットボールを紹介されたのである。

ラグビーこそ、英国の国技であり、レフェリーの審判に対しては絶対であり、雨が降っても試合を行う。 時間厳守。チームは15人で試合の途中倒れても補充は許されない。全く紳士的・男性的スポーツである。

これに眼をつけられたのが、中園淳太郎先生である。修猷に一歩先んじて、これを採り入れ、恐らく福中の校技にまで育てあげたい決意をされたのではなかろうか。

中学3年のとき、詳しく申せば大正13年7月11日、「級長集れ」の大号令が下され、福高ラグビーが始まったのである。

岩岡太郎、左座喜美雄君が世話役になり、赤黒の横縞の木棉のユニフォーム、白パンツ、靴も揃い、練習が始まったが、相手はなし、毎日基本練習ばかりだった。

しかしコーチ陣に非常に恵まれたことは、特記して感謝すべきことである。 福高ラグビーの基礎がガッチリ固められたのは、コーチ陣の指導がよろしかったからだと思う。九電の前進である東邦電力に居られた慶応大学出身の稗田幸三郎氏、横山道夫氏、高地万里氏、白田六郎氏等名選手に代る代るコーチに来て頂いたことは有難いことだった。

又九大工学部の佐伯功介助教授。先生は第三高等学校時代の名スクラムハーフだったとか。 当時三高は慶応と共に全国でも有数で、正月三日には慶応対三高の定期戦が行われていた。この先生からもコーチを受けた。

中学4年の冬、福中ラグビーは九州の代表に推薦されて甲子園の全国大会に出場することになった。

九州では中等学校でラグビーをやっているのは福中だけであったから、生れてはじめて大阪へ行く。愈々明日天王寺中学と対戦。その夜宿舎で中園淳太郎部長から、試合に臨んでの覚悟を聞かされた。

刀で相手の胴を切るのではない。腕で相手の胴を切るんだと、言われたことを今も覚えている。 試合は無我無中、遂に21-0で敗れた。翌日の毎日新聞は「福中は磨かざる玉、九州男児の意気あり、将来大を成すであろう」と報じた。

ラグビーを始めて3年、いくらか体力も出来、チームワークもとれ、ラグビーのコツものみこめて来た。しかし大正十五年の冬、先帝陛下の御不例のため全国大会は中止となり、優勝候補の実力を発揮することが出来なかったのは残念であった。

昭和3、4年頃、九大グラウンドで秋の高専大会が行われた。試合の前の晩、各校を代表した主将会議が行われた。 殆んど福中ラグビーの出身者ばかりだった。

当時の各校の福中出身選手は福高に岩岡太郎、吉村順之、吉村善三郎、 西南学院に和田正夫、高田大四郎、長崎高に内田仁、山野仁、五高に野田寅太郎、堤千秋、七高に瓜生満、相浦閑次、佐高に今村嘉蔵、藤正義、加藤開、椛島強一等がいた。

福中のラグビーが九州の草分けであり、九州のラグビーの勃興に非常な力となったことと思う。福高ラグビーの出身者で関東・関西の大学に進み、名選手として全国的に鳴らした方々も非常に多い。以下にその名をあげておく。

内田仁(中7回)、松隈保、長沼茂之、渡辺周一(中9回)
新島清、富永武士(中12回)、白井俊夫、斉藤一男(中13回)
藤熊夫 (中14回)、北御門彦二郎 (中15回)
安永健次(中16回)、矢沢英治(中17回)、高松昇(中18回)
安武恒夫、村上令(中20回)、久羽博、斉藤守高(中22回)、石橋昇(中22回)
高橋逸郎、麻生純三、吉田喜剛、土屋英明(中27回)
土屋俊明、平山彪、喜多崎晃 (高2回)
山田章一、松重正明、白井善三郎 (高3回)、今泉清(高4回)
木下憲一、柴田敏男、福丸栄蔵、定宗和正、麻生静四郎(高5回)
藤晃和(高6回)、山田敬介、野見山治、高谷祐二、白垣憲二 (高7回)
植木史郎、小林一元、梅津幸弘、山下忠男(高8回)
江藤敏勝、江崎賀之、小串清親(高九回)橋爪勇一(高10回)
玉江満敏、松尾善勝(高11回)児玉雅次、城戸一紀(高12回)
高川健世 (高13回)飯田恒久、安部優 (高14回)
日野博愛、駒谷恒房、田中淳二郎(高15回)
豊田泰之、萩野順司 (高16回) 元木賢一(高17回)、森田宗太郎、 宇治川福男(高18回)
井上登喜男、木原喜一郎、田中巧、新島清治、豊田淳治(高19回)
多保敏行、藤賢一、吉田純司(高20回)
渡辺貫一郎、森重隆、川内聖剛 (高22回)、末石庸幸(高23回)
西妻多喜男、阿刀裕嗣 (高24回)、南川洋一郎、豊山京一 (高25回)

これらの方々が母校の現役の指導に当ってくれた。なかでも新島清君にはこれまでの半生を母校ラグビーの現役指導と九州ラグビー界の発展に寄与してもらっている。

福中福高ラグビーがこの50年の間に、全国大会に出場した回数は実に32回。これは秋田工業に次いで全国第2位である。その間全国優勝2回、国体優勝2回、準優勝は度々である。

「ラグビーの名門福高」はこうしてできあがった。

前会長故山田公一君にも亦負うところ大である。 心からご冥福を祈る。

毎年8月第一日曜日は福高ラグビー倶楽部の総会である。当日現役対OBの試合が行われることになっている。今年の現役は駄目だと思っていると、いつの間にか全国出場のチームに育っている。 先輩の指導による激しい練習の結果だと思うが、これが伝統の力というものだろうか。

昨年は福岡県教育庁から、福高ラグビー部は表彰されている。輝かしい歴史、輝かしい伝統である。「ラグビーの名門福高」その名は全国に轟いている。 「ローマは一日にして成り難し」 「日もまだ浅き福中が…」。年一年その伝統を築くべく努力をつづけて、早や50年を経過した。その歴史の跡を記録し、更に輝かしい伝統の継続を乞い願ってまとめられたのが、この一本である。

これが編纂にあたり、日夜ご尽力された編集委員長の久羽博氏、三野紀雄氏に心からの敬意を表するとともに感謝を申し上げる。なお、合屋俊成氏、梅津幸弘氏には編集室の提供をうけ感謝に堪えないしだいである。

  

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」Pⅱ)