寄稿 中学7回

廃屋の合宿

佐々木 一雄

昭和二年十一月、全国制覇の意気にもえて合宿した。前年の十二月二十五日大正天皇が逝去され一切のスポーツ、演劇等が禁止(?)され、すでに推薦によって一月の全国大会出場が決定していたのであるが無念にも大会は中止となった。したがって明年その意気に燃えていたのだが、不幸にして六月、学校全焼の事故に遭遇し、夏休みの間に運動場に仮校舎が建てられ、運動場を失った我等は九大工学部グラウンドで練習した。

秋は次第に日没が早くなり練習時間が不足した。十一月上旬平常試験を終えると共に合宿することに決し、練習場を福岡高校(旧制)に決定した。 本年卒業の部の先輩数人が福高(後の九大教養部)でラグビー部を創設されており、便宜を図っていただいたのである。次は家さがしである。福高の周辺を目標にした。不景気のドン底で貸家はいくらでもあるが学生運動部の合宿では貸す人はない。やっと借りたのが警固本通り練塀町電停から筑紫女学園の方に下った所の西側の藁葺きの古家である。今はもう建てかわった家も既に古くなっているが、向いの八百屋は現在も昔日の面影を残して営業している。

一週間だったか十日間だったか忘れたが、部員一同ものすごい意気ごみでフトンを持ちこみ厳しい合宿生活に入った。

対九大戦

この合宿の間に九大と試合をして激戦の末、 9-3で勝った。九大は高校での経験者が半分ぐらいとあとは未経験者でまだチームプレーが未熟であり、そこに勝利のポイントがあった。我々の中には身長が一・六メートルぐらいしかないのが何人もいるので九大生はまごついていた。吉田君(SH)は「チッチャイ・ハーフ」と言われていた。

勝った我々は九大から警固まで凱旋将軍よろしく電車道を意気揚々と引揚げてきた。玄関前には雨戸に広い紙を貼り「九大を撃破」「福中ラグビー部」と大書した。

夜は祝勝会だ。独特の腕組みダンスが始まり熱狂の度が増すにつれ、古家のことだからたまらない、八畳の床がメリメリと落ちた。さあ大変、中園先生が来られぬうちになんとかしなければならない。誰かが裏から小型の木戸を持って来て一番凹んだ所の畳の下に入れたが、どうもうまくいかない。だがもう時間がない。

スキ焼きの準備も出来、先生も来られた。 高低区々の八畳の間で先生をかこんで祝宴だ。一目でそれと見てとられたらしいが、大変なごきげんで一言もお叱りの言葉はなかった。 中園先生の度量の一端がこの辺にも窺われる。

合宿中止勧告

十一月ともなれば高校、高専等の受験勉強にとっては重要な時期である。先生はよく、五回生が修猷に追いつき、六回生は追いこしたぞと我々七回生を激励されたものだ。その重要な時期に合宿とは何事だというので吉田耕之助君(戦死)が代表で呼ばれ、合宿中止を勧告されたが、彼はキッパリ「合宿はやめません」と言って来たという。

こうして合宿は所期の目的を達成、チームワークは一層強固になり一ヵ月後の九州予選(この年から予選を行なうことになっていた)への準備(いや予選は問題外であったが)が進められた。

 

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P27)