不死鳥の如く
川内 健一郎
目の前にあるボールを拾い、そのまま身を延ばすとゴールラインだ。大きな声で「トライ」と叫び、ボールもろとも身を地面にたたきつけた初めてのトライ。それは昭和二十三年二月、卒業生との送別試合、スパイクもなく裸足の出場で、スパイクで踏まれ傷だらけのトライであった。
我々は昭和十九年、太平洋戦争も敗戦の色濃い戦時中に、旧制中学に入学した。軍事教練、板付の飛行場造り、軍需工場への動員、食糧の欠乏・忠義・義勇奉公・絶対服従・神国・神風等々・・・。
翌昭和二十年八月敗戦。世の中はデモクラシー、食糧難の嵐が吹き荒れた。昭和二十三年四月より学制改革、即ち六四制となる。
このような目まぐるしい世の中の変遷時期に福中、福高生活を送ったのである。いわゆる、戦中、戦後派とでもいう時代である。
高等学校と名称が変わったとき、全国優勝をした一年先輩が全員卒業してしまい、高校二年に編入された我々だけによる、新制高校第一回の福高ラグビー部は、当時一軍選手であった加藤、土屋の二名を中心に編成されたのである。とき恰も昭和二十三年四月である。
当初我も我もと集い来たりし友も、その後の練習で一人減り二人減り…。高校三年の全国大会まで残ったメンバーは
FW 土屋・右田・平山・藤・黒木・川内
HB 緒方
TB 加藤・岡留・喜多崎
となった。
次に当時の思い出について
(一)グラウンド
練習は先輩以来、九大工学部のグラウンドであったが、昭和二十三年から福高グラウンドになった。九大グラウンドは青々とした芝生ならぬ草原であった。真夏の青々とした草いきれ、この草の匂いでもう「きつい」と思ったものだ。また、ダッシュのとき何かにつまずいて転倒するのでよく見ると、長くのびた草を両方を結び合わせ、わなを作っていたずらしているのを見つけ、くすくす笑いながらしかも用心深く走らねばならなかった。
福高グラウンドになると草一本もなく、長く雨が降らないとヤスリペーパーの上を走るのと同じで、取り替えたばかりのポイントが一日で磨耗てしまうし (昔のポイントは皮をクギでとめていた)、転べば大きなビフテキとなる、なかなか固いグラウンドであった。
(ニ)スパイク・ジャージー
戦後の物資不足、金融封鎖等でスパイクは一軍以外あまり持たなかった。二軍以下はみんな「裸足」でキックもするし、プレースキックもしていた。最初は足の甲が赤くはれあがり痛かったが、馴れるとスパイクをはくよりもよくボールが飛んだ。しかしスパイクは、はきたかった。片一方だけでもスパイクがあると、それでも喜んで片足だけはいて、チカタン、チカタンと走るのが嬉しかった。
ジャージーは親父のメリヤスシャツを持ってきて着たものだ。中には兄貴のお古だといって、つぎはぎだらけの大学のタイガーのジャージーを着ているのを見ると、大変うらやましいものであった。ましてやストッキングなど練習のときはいたことはなかった。
(三)監督
新島さんが福高の監督としてコーチをされたのは我々のとき、昭和二十三年からである。その頃から十年近くオールジャパンを続けておられたときだから、そのときの元気のよかったことは当然想像できると思います。
ダッシュ、ドリブル、ちょっとでも遅れると後から背中を小突かれる、後を見ると鬼のような新島さんの顔、こうなるとボールを貰うことより後から小突かれまいと逃げ回ったものである。
一オクターブ高いあの声、「ガンガンと突っ込んで行けよ!」、一語一語の力強さ、そうすれば勝つような暗示にかかって一所懸命になったものだ。当時我々も日本一のコーチだと思っていた。あのときの鬼のような顔も声も今は懐しい思い出である。あれから二十五年、新島さんの頭もうすくなった筈だ。我々がもう白くなったりうすくなったりしているのだから。(大先輩に申し訳ない)。
あの頃、新島さんの長男(清治君)が生まれて間もない頃であったが、我々仲間のうちには、よし、今度は新しゃんの子供が大きくなったら鍛えに来てやる、と意気まいているものもいたが、忘れてしまって目的を達することができなかったようである。 これを読んで思い出すのではないだろうか。しかしもう遅い。その長男は明大を卒業して社会人になってしまっている。
(四)合宿練習
昭和二十四年夏、平和台競技場のクラブハウスの更衣室の床にゴザを敷き合宿した。暦の日数を一日一日と消してゆく毎日。強くなるというより先に、きつい、苦しい、地獄だとの思いが先に立った。
(五)全国大会
(1) 福岡県予選
一回戦 福高 17-3 福陵
二回戦 福高 22-0 香椎高
準決勝 福高 20-11 小倉高
決勝 福高 23-6 東筑高
(2)九州大会
全国大会の出場を決める九州地区大会が、宮崎市で行なわれた。
準決勝
福岡高校(福岡代表)〇-×佐賀高校(佐賀・長崎代表)
大淀高校(大分・宮崎代表)〇-×甲南高校(熊本・鹿児島代表)
決勝
福岡高校〇-×甲南高校
佐賀高校は夏の練習試合で佐賀まで遠征したときコテンパンにやられた相手である。FW、TBとも身長、体重において格段の差があったが、その劣勢を全員闘志をもってはね返した。この日の圧巻は、小兵TB 加藤君が相手のTB一八〇の選手を第一発目のタックルで宙に浮かせるという猛烈なものであった。(加藤医師は今も小兵で、福高の世話をしているが、中学一年のときは我々が見上げる大男であった。そのときから全然大きくなっていないそうである)。
(3)第二十九回全国大会
昭和二十四年十二月二十九日二十時、 博多を出発、大阪へ向かう。
当日、師走の寒風の中を博多駅頭には、同級生、友人、先輩の見送りを受けた。総務会長であった佐々木君のリードによる「フレーフレー福高」「フレーフレー土屋」「フレーフレー加藤」「フレーフレー…………….」、選手一人一人の名前が夜のしじまにこだまし、全員による「千代原頭」の大合唱が耳の底にありありと残っている。
一回戦 ― 久居東高を一蹴。
準決勝 ― 国体に決勝戦まで残った実力を持つ近畿の雄、名CTB藪田を擁する村野工と対戦。昨日の試合を見て自信はあった。新島コーチの、村野にはあくまでFW戦に持ち込めという戦法が功を奏し、これを9-6で破り、いよいよ決勝戦へ。
決勝 ― 福高FWは軽量ながら秋田工のFWをよく抑え、前半殆んど秋田陣内で試合を展開した。しかし再三のチャンスもいま一歩というところでトライには結びつかなかった。一方の秋田は二八分に得た唯一のチャンスをものにして先制のトライをあげ、前半を終わった。
後半も福高FWの突っ込みは依然鋭く秋田を圧迫しつづけたが、トライに結びつけることはできなかった。逆に秋田は、一一分のトライをきっかけに調子をあげ、一六分1ゴール、二六分1トライを加えた。これに対し福高も土屋の強引なトライで反撃して、なおも秋田ゴール前に迫ったが、ここで遂にノーサイドの笛が鳴った。敗れはしたものの、福高の全員にみなぎる闘志は、自己の技量以上の力を発揮して終始秋田を圧迫していたのが目立った。
福岡高(1T 0G)3-14(3T 1G)秋田工
学制改革により中等学校大会は、高等学校大会と呼ばれるようになり、この試合は中等学校から高等学校になった福岡高等学校チームの、最初の全国大会出場であった。
(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.150 )