寄稿 高校10回

雪辱ならず、対福工戦

釜我 功・山田 厚生

修猷館との定期戦を最後にレギュラーから八名もの先輩を送り出しその穴埋めができるだろうかと半ば懸念しながらも、しかし伝統の炎は燃やし続けなければならないし、全国制覇も目指さなければならない。半ば不安もあったが、とにかく新チームが出発した。寒風吹きすさぶグラウンドに楕円のボールを追いかけ新人戦に臨んだ。一、二回戦、福商、西南を18-0、2-0と一蹴したが不覚をとった。敗戦を機に内山主将 以下二十九名の部員は“勝つ”を合言葉に猛練習に励んだ。新島先輩をはじめ村上、麻生先輩等に叱咤激励を受け、技術上の細かいプレーから精神的なことまで、コーチをしていただきながら日が沈むまでグラウンドに汗を落した。夏休みに入るや恒例の名物合宿が大牟田の記念グラウンドで十日間行われた。

明治大学四年で福高が優勝した時のフロントロー藤先輩を合宿長に、優勝したときのメンバーが大学の最上級生になり大挙して大牟田に来られ、社会人チームの三井染料、東洋高圧のメンバーを相手に熾烈を極める練習が続いた。三井には安武、松重、福丸、高谷先輩等がおり、関東の大学を出たばかりのばりばりで、マッチを挑んでも歯が立たなかった。練習が激しくなればなるほど先輩たちはバターを差し入れてくれたり、グラウンドで練習直後に西瓜を用意していただいたり、ずい分とお世話になった。合宿も終り夏休みを返上して来たる国体予選へと調整をした。

九月一日九大グラウンドで福岡工業と相まみえた。前半3-0とリードしながらFW、バックスの連繋がうまくいかず追加点をとれないまま、ハーフタイムになった。新島先輩の言葉を貰い勇をふるい立たせ、後半にのぞんだが、やはり連撃はうまくいかず、ゴール直前まで押してはノックオンをくり返すような状態で、ワン
チャンスをものにされゴールまでも決められて5-3で敗退した。

国体予選の二の舞を繰り返すまいと、秋の長い日差しの沈むまで数多くの先輩諸兄のコーチを受けながら、全国大会へと捲土重来を期した。十一月十六日、修猷館グラウンドにて24-0と西南高校を一方的に破り県大会へと進んだ。十一月二十三日、平和台競技場にて準決勝戦で嘉穂東とまみえ28-6というスコアで勝ち進んだ。前半1トライ、後半1トライを許すというディフェンスのすきを見せたため試合後、部員はミーティングを重ね福工戦にそなえた。

あくる二十四日、ところも同じ平和台にて、国体予選の雪辱を期さんとフィフティーンを始め一年生まで闘志をむき出しにして(ラグビー用語で気合が入っていた)ぶつかったが、前半1トライずつしたところでハーフタイムとなり、水も取るか取らぬままで後半に託したが、SO山田(二年)が脳震盪を起こすアクシデントに見舞われて、5-11のままレフェリーの無情の笛は鳴りひびき、グラウンド中央に茫然と立ちすくんでしまった。我々はまたもや福工に負けたのだ。この年の福工には、後の全日本になった西住選手(新日鉄)が大活躍したのである。決して弱いチームではなかったと思っている。九電チームと合同練習をしたり、練習自体も決しておろそかにしたのではない。そのことは最後の朝日招待の定期戦で、全国大会へ進み、保善高に15-0と惜敗した修猷館14-3と完勝したことで、胸につかえていたモヤモヤが取れたような気がしたのである。

福高を巣立つにあたり後輩たちに次の言葉を送りたい。伝統の炎は絶やすな。励め練習、勝て試合、練習で泣いて、試合で笑え。我々が届かなかった”夢” 全国制覇を叶えてくれ。

昭和33年卒メンバー

CTB 内山浩一郎

FW 仁科元政

FW 釜我功

FW 岡本 健

CTB 東田 逸人

FW 山田 厚生

HB 三木 和男

FB 石蔵 勇基

WTB 橋爪 勇一

WTB 外尾 憲明

FW 重富 英城

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.199)