寄稿 高校14回

不安かつ不運かつ不名誉な年

飯田恒久

前年度のバトンを受け継いで、いざスタート。しかしスタートするに当り、あまりにも大きなハンディがあり過ぎた。第一に、一年から、ずっと続けてきたのはわずか四人。そのうえ山田正人が家庭の都合により退部。残された上級生はキャプテン飯田、ヴァイスキャプテン安部、FWリーダー東田のわずか三人であった。
二年生は日野、駒谷、田中、内山、黒瀬。そのうち内山、黒瀬は病気のため休部。

とにかくスタートの時点では、六人世帯のラグビー部というひどいありさまであった。こんな状態でこの福高ラグビー部の伝統を守りぬくことができるだろうか、というのが最上級生である我々三人の最大の悩みであった。練習をすることよりも、まず部員を集めることが先決問題であった。それで全員で(と言っても六人) 手当り次第、人をつかまえては入部するよう働きかけ、練習どころか、人間集めに狂奔する毎日であった。

その結果井上尊之、田代、半田、井上、砥綿の三年生五人と松重、阿部、池上の一年生三人、計八人が入部し、やっと十四人世帯になった。しかし、まだラグビープレーのできる人数にも足りないし、半数以上がまったくの素人である。それでも、どうにかこうにか練習のできる状態になったことは、喜ばしかった。練習といってもボールの取り方、走り方、スクラムの組み方、全て基本の基本、そんな練習しかできなかったのではあるが…。しかし、みんな無我夢中で練習に励んだ。

そうこうしているうちに、国体の予選が始まったのだが、部員は十四人しかいないのである。結局、陸上部より一人出てもらうことにして、やっと国体の予選に出場することができた。ところが、砥綿がひどい脳震とうをおこし、プレーすることを医者より禁止され、マネージャーに転じた。そのうえ私が練習中腰の骨を三本骨折、また井上尊之が腕の骨を折り、県大会予選の時には最悪の状態となり、部員全員不安に陥った。

私は一番しっかりしなくてはならない時期に、自分自身の不注意によって、みんなに迷惑をかけたことが非常に心苦しく、つらい入院生活を送った。

そういうわけで県大会には、休部していた内山、黒瀬に無理を言って出場してもらい、もう一人はバレー部の山田に出場してもらうことによってその穴をうめた。結果的には、決勝において福工に大差で敗れたが、こんな状態にもかかわらず、全員がその全力を尽くして戦ったことは、次の全国大会予選の見通しを明るい
ものにした。

国体予選が終わり、約一ヶ月程して、やっと全部員がそろって練習できるようになり、全国大会を目指して練習に励んだ。全国大会は最後に残されたチャンスであり、また、福高ラグビー部の名に賭けてもその使命を果たさねばならない試合なのである。

夏合宿(一週間の日程で十三人が参加)を終え、国体予選で初めて試合を経験した半数以上の新入部員も、ようやくラグビーというものが判りはじめ、少しでも疑問の点があれば研究するようになってきた。したがって練習内容も豊富になり、また教えられることを理解するのも早くなってきた。それに練習が終わっても、自分自身の不得手な面をカバーするため、自からフリー練習をするような意欲が出てきた。このムードがもっと早く生まれていたならば、かなりの強力チームになれたのではないか、と今さらながら惜しまれる。

いよいよ全国大会の予選が始まった。とにかく一戦々々が決勝であり、メンバーも常にベストメンバーで戦わなくてはならない。ベストメンバーといっても最初から十五人しかいないのであるから、一人の落伍者も許されない。しかし地区予選、県大会と順調に勝ち進み、準決勝では福岡電波と対戦。電波はその三年前頃から急激に強くなってきていた。また実際に強かった。部員数にしても五十人は下らない状態で、我々にとっては、羨ましい限りであった。

さて、キックオフ。お互い気迫の入った、激しい試合であった。先制トライ福高。そして電波。前半終了前、福高6-3でハーフタイム。

後半に入って前進、後退、お互い相譲らず、時間は刻々と過ぎていく。残り時間はもうない。福高フィフティーンは一丸となって敵のゴール前に押し込んだ。これで勝利は我が手にと、プレーヤーはもちろん、応援してくださっている方々も思われたに違いない。しかしその瞬間、福高ペナルティー。風下の我々は逆にゴール前まで押し返され、ゴール真下にスクラムトライを許す。ゴール決まって、6-8の逆転にて敗る。無情のノーサイドの笛が耳にささる。これで全て終わった。全国大会出場ストップ。ここに全国大会不出場という汚名を残す。全てこれ我々上級生の責任であり、またこれをリードしなければならない主将である私自身の責任である。諸先輩方に対しては誠に申し訳ない気持である。

部員が足らず、剣道部より入部した森、バレー部の山田、いろんな面で苦労した二年生、一年生。目標を達成することはできなかったが、最後の最後までほんとうによく頑張ってくれた。こんなことを言うと諸先輩方から、頑張るのはあたり前だ、とおこられるかもしれない。しかし部員がいなくて、一体試合ができるだろうか? 一人でもケガ人を出せば試合を続けられないという部員不足の状態を考えれば、我々が最後の試合までプレーできたということはそれなりに評価されていいかもしれない。試合において、十五人全員がベスト・コンディションということはあり得なかったと思う。どうしても休まざるをえない状態にならなければ練習を休むことはできない。だが休んだ本人にしてみれば、欠員のまま、みんなが練習しているのを見るのは苦しいものであり、また痛みをこらえて練習している者も、それ以上に苦しかったに違いない。そういう意味で、ほんとうに苦しみに耐え、他人に迷惑をかけてはいけないという皆んなの気持があったからこそ、最後の試合まで頑張れたのである。

全国大会も終り、毎年一月十五日に行なわれていた福高・修猷の定期戦は、今回(十回大会)において、終止符を打つことになった。その原因は、修猷館も、ここ数年、部員不足が原因で試合ができない状態が続き、以前のような、激しい、気迫のある定期戦が、できなくなったからだ。修猷館も、国体優勝という輝かしい伝統を持っているが、部員不足でどうしようもなくなってきたのだ。我々にとってもこれは他人事ではない。現実に我々も部員不足の苦しみを体験したからである。そして福高も、修猷館のように試合ができなくなるようなことにならないだろうかという不安な気持になるのだが、そのきっかけが、我々の時代から始まったとなれば、その責任を、どこにもっていったらよいのやら……。

最後の福高・修猷の定期戦は、大差をもって我々の勝利に終った。我々最後の試合である。有終の美を飾ることができた。しかし、福高・修猷の定期戦が無くなると思うと、実に淋しい気持だ。

試合終了後、我々は次の時代にバトンを渡した。しかしそのバトンは輝かしい、喜んで、軽い気持で受け取れるものでなく、不安な、そして、我々以上にハンディキャップがある、重いバトンであったに違いない。

最終メンバー

1半田 (3年)
2東田 (3年・FW リーダー)
3松重 (1年)
4森(3年) 池上 (2年)
5内 山 (2年) 山田 (重) (3年)
6 井上 (尊) (3年)
7安部 (3年・副主将 )
8黒瀬 (2年)
9田代 (3年)
10日野 (2年)
11田中 (2年)
12駒谷 (2年)
13飯田(3年・主将)
14 阿部(1年)
15井上 (茂) (3年)
 低綿 (3年・マネージャー)

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.214)