寄稿 高校18回

たった4人の3年生

森田宗太郎

我々高校18回は、卒業する時たった4人であった。バックローの新島、ポイントゲッター両ウイングの宇治川、太田とセンター森田。

第2次世界大戦が1945年に終戦となり、その2年後に産まれたいわゆる戦後のベビーブーム児。
したがって高校入試、大学入試の競争率が高く、親はできればクラブ活動は参加せず勉強を頑張って欲しいという傾向があったと聞いている。同期の入部者も少なかった。
まして体中泥だらけ、傷だらけになるラグビー部などもってのほかであったろう。

2年生の時は試合でも15人揃わず、柔道部や陸上部から借りてきて試合をやった。
幸運だったのは、次の年から父親や親戚が福高ラグビー部の先輩であったり、中学時代に運動部で身体を鍛えた有力な新人が多数入部したことである。
3年の時には小振りながら立派なチームが出来上がった。県大会で優勝し花園出場も決まった。

1回戦秋田市立高校、2回戦東京の日大三高校に勝利。3回戦のベスト8戦で、後に全日本で活躍した小籔主将ひきいる淀川工業高校に敗退し、福高での3年間のラグビー生活は終わった。
悔しかったがうれしいこともあった。2回戦の日大三高に勝利し準々決勝の対戦相手の抽選で第1グランドに入った時、スタンドの往年のラグビーファンが、福高の赤白のユニフォームを見て、関西弁で「おっ福岡残っとるやないか」「応援するで!」と大声で励ましてくれたことである。

最後になり恐縮ですが、お世話になった門田部長先生、新島監督、高川コーチ他に感謝しております。

終わりに福高ラグビー部の現役諸君に” Three cheers for 福高ラグビー部 hip! “