幻のサインプレイ 「ニュージーランド」
大上隆
サインプレイの呼び名は「ニュージーランド」。発案は当時の監督、にいしゃんこと新島清さん。
⑩がボールを蹴り⑪⑭にキックパスしてトライを取るというもの。
今ではこのプレイは盛んに使われていますが1970年当時はレアーなものでした。
そんな事を想い出しながら当時の花園の試合を振り返ります。
心残りは、このサインプレイを公式戦で一度も使わずに公式戦を終えたこと。
当時は1月1日が第1試合、3日、5日、7日。決勝戦は現在は1月7日がですが51年前は9日でした。そして、福高ラグビーチームは7日に敗退しました。
半世紀前、このサインプレイにチャレンジしようとしていたのです。
私は全てのパスをダイブするスクラム・ハーフでした。試合中はもちろんのこと、練習時から常にダイブしていた。一年から先輩の指導でそうしていました。当時はスピンパスはない時代。
一球々に精魂込めてプレイしていたと思います。
合言葉は「全国制覇」、戦績は九州1位、国体2位、花園3位でした。
そもそもラグビーは冬のスポーツですが高校生にとっては季節は関係ありません。
花園に始まって花園で終わる365日でした。
来る日も来る日もOBが見守る中、厳しい練習の繰り返しです。
県大会、九州大会、国民体育大会、全国大会を消化することで精一杯でした。
日本ラグビー協会名誉会長の森重隆氏は高校の2学年上です。
森先輩は会うたびに一言会話を交わしてくれます。
ある時「大上がもう少し上手いハーフバックやったらね~」と言われました。
花園準決勝戦の相手、目黒高校の9番はあの松尾雄治さんだったんですね。
私としては自分なりに懸命に50分間プレイしましたが何せ松尾雄治氏と比較されたら敵いません。
高校生当時も松尾氏のプレイは際立っていました。
森さんの脳裏には、明大、釜石とずっと一緒だった松尾雄治氏のプレイがあったんでしょうね。
森重隆氏は母校・福岡高校の監督を21年間されました。
花園90回記念大会出場を28年ぶりに果たした時にこう言われたそうです。
「やっとチーム力が私が教えるレベルになった」と。
百戦錬磨の森監督は、高校生に小手先だけの技術を容易には教えなかった。
今から考えると我がチームが「ニュージーランド」のサインプレイを使えるチームレベルに達していたならば、花園優勝も夢ではなかったと思われます。
次に準決勝戦翌日の西日本新聞、朝刊記事を紹介して筆をおきます。
【泣くな 福高】 西日本新聞朝刊・1972年1月8日(豊田泰之記者筆・高校16 回)
青春の全てが燃えた50分間だった。福高は17年ぶりの決勝進出を
そして、あわよくば4度目の優勝を目指していたために大先輩の新島清氏は試合前一言だけ言った。
「死ぬ気で行け」
選手は誰もが身を捨ててぶつかった。しかし、いつもなら倒れるはずのタックルに目黒高校フィフティーンはビクともしなかった。
試合前、福高応援席のどこからか囁きがもれた。「相手はプロばい」「そげんなところに、負けてたまるかい」目黒高校は40数人の全部員が寮に押し込められて大学並みの合宿生活を送る。
起床後の登校前に1回。昼休みに2回目。そして下校後の4時から4時間。
一日に3部の練習をする。
応援席の声はあまりに福高の環境と違うために起こったものだった。
福高は言わずと知れた進学校。彼らはラグビーだけがすべてではない。
「2時間の練習が終わればすぐ勉強です」今春、一橋大学を目指すSO中井君が代弁する。加えてグランドの改修工事が進まず現チームは練習不足に泣いた。
前半の15分過ぎ福高は逆転に成功したが終了間際に再逆転される。
後半は右に左に振り回され大差がついた。相手を止めようにも津波の様なフォローアップはどうしようもない。
「練習量の差です。ラグビーを朝から晩まで一日中やっているような目黒高校にだけは負けたくなかったのに」西妻主将こう言って号泣した。3位の表彰状を手にした時西妻主将は17年ぶりの快挙に満足してか、少しの間だけ賞状を頭上に掲げた。
時間がたって悔しくなったのだろう、ロッカールームは涙の渦だった。
30数年間福高ラグビーの指導に当たり部員からは神様とあがめられる新島氏は今年57歳になる。
「にいしゃんが元気なうちにもう一度だけ胴上げしてやりたい」
部員やOBの切実な願いが実るのはいつか。(豊田泰之)