寄稿 高校28回

福高ラグビー部のマネージャーとして(50周年式典などの記憶)

中村(吉永)康子

昭和48(1973)年4月、入学したての頃にグラウンドを歩いていて「マネージャーをしませんか」とラグビー部の先輩から熱心に声をかけられた。大きなイベントを控えていたこの年は女子なら誰でも良いから必ずマネージャーを捕まえなければならなかったのだ。ということが後で分かった。

新島先輩の家の隣に住んでいた縁でラグビーが好きだった友人の伊東さんとスポーツは好きだが運動部に入る体力が無い私は二人でマネージャーをすることにした。

大きな行事としてまず6月23日24日の二日間でラグビー九州大会が平和台で行われた。参加校の監督や審判の方々にお弁当やお茶を出すことは当然女子生徒の仕事であり、土曜日の授業は公欠をもらって3年生のマネージャーと一緒にお茶くみをした。その大会の参加校で一番記憶に残っているのはトライ後のゴールを完璧に決めていた大分舞鶴である。

50周年の式典は8月5日日曜日に福高の体育館で行われたが、その準備等でいろいろな体験をさせてもらった。式典の案内はOBの他福高の先生方やラグビー関係者など多くの方に送ったが、参加費の振込み用紙にスタンプを捺し、案内状や出欠確認のハガキなどと一緒に折って封筒に詰める作業を地学教室でただひたすら黙々と行った。

記念式典の広告依頼に顧問の久和先生と一緒に朝日、毎日、西日本新聞の3社を周り、西日本新聞社でOBの村上先輩にお昼ご飯を奢ってもらったのは良い思い出である。     

会場の準備は前日に部員全員で行った。

当日の式典のことは全く覚えていないが、体育館の2階の入り口で受付をし、南川先輩と話をしたことははっきり覚えている。式典の後グラウンドで修猷館高校との親善試合やOBとの練習試合が行われた。たくさんのOBが参加されていたが、はっきり覚えているのは森重隆先輩である。芸術の授業で音楽を選択していた私は森先輩の同級生だった音楽の教育実習生から在校時の武勇伝を聞かされていたので、「へーこの人があの森先輩なんだ」と思った記憶がある。     

記念式典の準備や当日の仕事をよく頑張ったということで後日慰労会があった。部員全員学校から歩いて新島先輩(子宝酢)がお酢を卸している福寿飯店へ行き、高級な中華料理をご馳走になった。

まだ新幹線が博多まで開通していない時代のインターハイ花園へは夜行列車を使っての移動だった。12月28日金曜日に学校から3年生のマネージャーと一緒に千羽鶴を持って博多駅にお見送りに行った。その時タクシー代を払ってくれた久保田先輩から「偉大な先輩がいたことを覚えておいて」と言われたことをここに書いておこう。

当時は福岡県から2校出場できたので、博多駅のホームは福岡高校のラグビー部選手と見送る人たち、福岡工業ラグビー部選手と見送る人たちでごった返していた。福高の応援団が「フレーフレーふっこう」と先輩達にエールを送ったあと、福岡工業の選手にも「フレーフレーふっこう」と全く同じ文言でエールを送っていて、「福岡工業もふっこうって言うんだ!」と意外に思ったことを覚えている。

しっかり覚えているつもりでもこうやって文章にすると曖昧な点も多いのでここで筆を置くことにする。