寄稿 高校29回

人生の礎

馬淵一彦

私達高校29回は、その前年に創部50年式典が催され、入部数ヶ月後に「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」が刊行された昭和49(1974)年に福高ラグビー部の一員となりました。先輩方が花園に出場する姿を見て「やがては自分も…。」と思ったのは言うまでもありません。

時は過ぎ、昭和51(1976)年秋、キャプテン中山(FW)、副キャプテン井上(BK)、以下FW田村、尾宮、古賀、箱田、立石、私、BK中村、清澤の10名はそれまでの苦しい練習に耐え、福高の固いグランドでの夏合宿を乗り越えて培った力を発揮して2年振りに花園に出場すべく下級生とともに県大会に臨みましたが、力及ばず準々決勝で敗れ、3年間の努力は報われませんでした。みんなグランドの片隅で負けた悔しさに涙しました。前年度から県大会の出場枠が1減の1校のみとなり狭き門となったとはいえ、花園に2年続けて出場できなかった悔しさ、申し訳なさは計り知れないものでした。

私にはもう一つ悔恨がありました。当時福高は、学区が拡大されたばかりで、福高から最も遠い中学校出身の私は、2〜3年早く生まれていれば福高には行けませんでした。そのような中での福高進学に親は狂喜しました。しかし、己の弱さのため成績は中学校時代の模試の成績など見る影もなく奈落の底へ。「ラグビー辞めろ」という親の圧力に反抗していましたが、2年の途中で陥落し、夏合宿を挟む数ヶ月間、部を抜けてしまいました。しかし、圧力に屈した人間が上昇するはずもなく、腹を括り、勝手にラグビー部に復帰しました。あとは、ラグビーも勉強もやれるだけやりました。しかし、先に述べたように力及ばず、私には負けた悔しさとともに大きな悔恨が残りました。部長の久和先生、監督の三野先生、そして29回の仲間たちに大きな迷惑をかけたと…

しかし、社会人としての40年余の中で、辛い時は福高ラグビー部での経験を思い返して踏ん張り、無事に定年を迎えたいま、あの時腹を括ってラグビー部に戻って良かったと心から思います。挫折したままでなくて本当に良かったと。
福高ラグビー部に身を置いたことは私の人生の礎です。「福高ラグビー部で良かった」という想いでいっぱいです。仲間として改めて迎え入れてくれた29回の皆さんにも感謝の念でいっぱいです。

40歳代後半からクラブチームで小学生と関わって20年になります。その中で、自分が関わった子どもが福高ラグビー部に後輩として入部するのが嬉しくてなりません。これからも自分が関わった子どもが一人でも多く福高ラグビー部に入ってくれることを期待しています。

現役の皆さん、今は以前と違って強豪私立校が花園への壁となっています。抜き難い壁です。抜いてくれることを期待しています。そして、全員が卒業した後に振り返って「福高ラグビー部で良かった」という想いを持てる3年間であることを望みます。その中から、大学、リーグワン、日本代表で活躍する選手が続き、「福高 ラグビー部」の名前が全国のラグビーファンの中に生き続けることを。

最後に、「福中、福高ラグビー部100周年記念企画」を担当していただいている皆様のご尽力に御礼申し上げます。とともに、御指導いただいた部長の久和敏郎先生、監督の三野紀雄先生、同期の田村渉君の御冥福をお祈りします。