寄稿 高校32回

苦い体験が思い出に変わるとき

大井実

コンクリートのように固く、タックルのたびに擦り傷(ビフテキと称されていた)ができる福高のグラウンドでひたすらボールを追いかけていたあの頃から半世紀近くの時間がたった。少年だった我々もすでに還暦を過ぎ、昭和から平成、令和へと遷り変わる中、時代の変化の目まぐるしさを実感しつつも、昨日のことのように高校時代を思い返すことも多い。

私がラグビー部に入ったのは全くの偶然で、ほとんど予備知識もないままの入部だったが、ネットやスマホもない時代、唯一の情報源だったラグビーマガジンを貪り読んだりするうちにラグビーというスポーツの奥深さに目覚めていった。山笠の季節になると帰福し指導していただいた森重隆先輩をはじめ、豊山京一先輩、南川洋一郎先輩といった当時の全日本で活躍していた錚々たるOBの存在は、眩しくも誇らしい気持ちを抱かせてもらえた一方、現役にとっては大きなプレッシャーでもあった。

1年の県大会は福岡工業に、2年では筑紫丘に敗れ早々と我々の代が巡ってきたが、そんなタイミングで数年にわたって低迷が続くラグビー部を見かねた南川昌一郎先輩(南川洋一郎先輩の父上)が監督として練習を見てくださることになった。氏の情熱的な指導によってスクラムなどの強化を図った結果、久しぶりに新人戦の決勝まで進むことができたが、その相手は、前年の県予選で敗れた因縁の筑紫丘であった。試合は一時先行したものの最終的には4-15での敗戦となったが、それなりの手応えをつかめた戦いでもあった。

その後の九州大会の予選では、当時、まださほど強くなかった東福岡に足元をすくわれたが、夏の宮崎合宿で鍛えなおし、再び県大会の決勝まで進んだ我々の前に立ちはだかったのは、またしても筑紫丘であった。平和台陸上競技場でTV放映まである晴れの舞台であったが、今回はなすすべもなく敗れ、筑紫丘に初の花園出場の栄冠を献上することとなってしまった。新人戦で勝ち、九州大会の決勝でも大分舞鶴と接戦を演じるなど経験を重ねるうちに自信を深めていった筑紫丘に比べ、怪我人が多く、ようやく戦力が整い決勝まで進んだものの大舞台で浮足立ってしまった我々との差が大きく出た試合であった。

その敗戦は、自身が主将だったこともあり、二度と振り返りたくないほどのショックな出来事であった。その後、大学で京都、社会人になって東京、大阪と移り住む間、福岡に戻るという選択肢が思い浮かばなかったのも、その時の記憶がトラウマになっていたからかもしれない。それがなんの因縁か、30代後半で福高の同級生と結婚することになり、福岡に戻って平和台の近くで商売を始め20数年を過ごしている。

ここ10年ほどは、毎年、筑紫丘と修猷館のラグビー部メンバーと同期会を開催している。当時の新人戦、九州大会予選、県大会の決勝は、全てこの3校間での戦いであったが、同期会では、当時の試合のディテールをリプレー検証の如く語り合いながら楽しい時間を過ごしている。そんな交流を重ねるうちに徐々にトラウマも解消され、苦い体験にも意味があったのだと考えられるようになってきた。

ついぞ、恋焦がれた花園の地に立つことはできなかったが、高校時代に真剣にラグビーに取り組んだ時間は決して無駄にはならなかったと思える。低迷が続く苦しい時期ではあったが、それゆえ、強くなりたいという一心で仲間とともに必死に考え努力した経験は、順風の時ばかりとは限らないその後の社会人生活でも逆境を乗り越える糧になっていると感じている。

最後に、福高ラグビー部の創部100周年をお祝いするとともに、お世話になった部長の三野紀雄先生、久和敏郎先生、監督の南川昌一郎さん、同期の高須利喜君、秋重智司君のご冥福をお祈りします。