寄稿 高校33回

6年ぶり34回目の出場まで

牟田口享司

昭和53年5月14日、高校33回が福岡高校に入学して最初の公式戦が行われました。中部地区大会2回戦、福高18対42修猷館。完敗です。出場した選手は3年3人、2年生8人、1年生4人で、1年生4人の内1名を除いては、私も含めて初心者でした。選手が少ないから出場したのであってかなり厳しい状況だったという事です。幸いにも33回は20名近くの部員が入部しました。最終的には14名になりましたが、そんな我々が何故3年生時に全国大会に出場できたのか、私の思いつくままに書いてみようと思います。

大前提として南川監督や三野先生、OBの方々の指導が有ったことは当然です。また、31回、32回の先輩方は、人数は少なかったですがキャプテンを中心に福高ラグビー部とは、という基本となるところを伝えて頂いたこともそうです。部員数が33回14人、34回15人、35回14人合計43人となったこともそうでしょう。自チームだけで紅白戦が出来ますし、なによりレギュラー争いが厳しくなるからです。その中にポテンシャルの高い選手がいたことも大きいでしょう。しかし、私が最も大きかったなと感じているのは、本気で全国大会に行きたいと思わせてくれた人物がいたからだと思っています。

その人物は相浦一成といいます。ちょっとめんどくさかったり、わがままなところも有りますが、一年時から『俺たちの代で絶対花園行こうや』と常に言っていました。勿論、みんなやるからには、勝ちたいし花園行きたいとは思っています。しかし、行きたい気持ちだけ持っている人間と、行くためにはいつ、何を、どうしなければいけないかを考え、行動する人間とでは、結果は大きく違ってきます。我々の代から部員数が増えていますが、たまたまだけでは有りません。彼はとにかく声をかけ、言葉巧みに、半ば強引に部員を勧誘してくるのです。当時はまだ少年ラグビーが今のように盛んでは有りませんので、経験者などは学年に1・2名いるかどうかで、大半は初心者です。時には、ロックのポジションが手薄だと思ったらバスケット部のレギュラー選手を強引に引き抜いたことも有りました。結局はバスケットに戻ってしまいましたが、大学・社会人でもバスケットをプレーした優秀な選手でした。また、1年からレギュラーで出場していた松尾が大きな怪我をして長く練習に出なかった時も、一成が数名に声をかけて「松尾がいなければ全国大会は厳しいけん何とか説得に行こう」と言って、数名で松尾の自宅まで行ったことも有ります。その甲斐も有ってか松尾も戻ってきてくれました。実は私も1年の途中でラグビーやめかけたことが有ります。その時にずっと声をかけてくれたのも彼でした。彼だけではなく、お前タックルが下手やけんタックル練習しようぜ、と付き合ってくれる人物も出てきました。そうなってくると、何となく花園と言っていた人間も本気で花園を目指すようになってきます。おかげで1年の新人大会で準優勝、2年全国大会予選準優勝。すると、我々の代になると県内では負ける気はしなく、3大会全てを優勝する事が出来ました。

現役諸君、良いタックルしていますね。でも、それだけでは行けません。本気で花園を目指すのであれば、今何が足りないか、何が必要かを考えて行動して下さい。福岡県の現状は厳しいですが、全員が本気で花園を目指すチームになって下さい。期待しています。