寄稿 高校38回

福高ラグビー部への感謝

原口拓也

私と福高ラグビー部との出会いは、幼少期にさかのぼる。幼い頃、父親(高8回生ただしラグビー部ではない)が、よく平和台や舞鶴グラウンドへ福高の試合を見に連れて行ってくれたのを覚えている。その時、赤と白のジャージを見て、何となく自分もあのジャージを着てラグビーをするのかなと感じていた。

ところが、中学2年の頃に福高へ入学するためには、成績上位が条件とわかり、それから慌てて勉学に勤しんだ。おかげで何とか入学することができたが、学業面では常に底辺を彷徨っていて学校にとってはお荷物的な存在であったろうと思う。

入部当初。はじめは面食らうことが多く、ラグパンの下はノーパン・ボール磨きは唾で光沢が出るまで磨くことなどに驚かされた。また、先輩方の存在がとても大きく感じた。特に、日頃は優しかった神田キャプテンだが、練習の時には鬼となるため、その逆鱗に触れると途方もなく恐ろしく、そんなことが無いように、1年生たちは気をつけていた。南川監督(通称オヤジ)や三野先生(通称みのちん)の存在も偉大で、なんだか大変な組織の一員になってしまったような気がしたのを覚えている。

2年生の時には、試合に負けることが多くなり、弱い後輩たちを心配してくれたのか、森重隆先輩をはじめ、多くの先輩方が練習に顔を出してくださった。練習は、とにかく走って、ぶつかり合うことを主体になされ、激しさを極めたが充実感は大きかった。雪の降る中でのディフェンスアタックの後の泥まみれの体で、みんなで学校の塀を乗り越えて銭湯に行ったのは、今でも良き思い出となっている。

3年生の時には、プレイヤーとしての自分は伸び悩み、後輩たちにも追い越され、試合に出る機会も減ってしまった。おまけに花園予選前に手首の骨折で全治3か月の診断で、裏方に回ることとなってしまった。もちろん悔しさは残ったものの、これも人生においてはプラスに作用したと感じている。予選最後の試合に負けたとき、仲間たちから「お前を花園に連れて行ってやれんで、ごめんな。」と言われた時には、そんな想いで戦ってくれていたのかと涙が止まらなかった。同期の仲間たちはかけがえのない存在なのである。

私にとって、福高ラグビー部は、よき先輩、よき後輩、よき指導者、そして何より、よき仲間達と出会えたところであり、人生における学びの場でもある。1年生の時、3年生が決勝で負けたときに、南川監督(オヤジ)が「福高で3年間やったことは、社会人になって必ず役に立つからな。」と、最後の言葉を先輩たちにかけていたのを覚えているが、まさにその通りだと実感している。卒業後、仕事の事やらで、時にはつらいこともあったが、福高ラグビー部の3年間の経験があったからこそ乗り越えられてきた側面は大きい。そういった意味で「感謝」の言葉しかない。

福高ラグビー部100周年おめでとうございます。現役のみなさんやこれから福高ラグビー部に入ってくる後輩たちには、100年の重みを感じつつも、福高ラグビー部の3年間を仲間と共に大いに青春を謳歌してほしいと願う。我々OBは、「また、いつかは花園へ!」という想いはあるが、勝敗を超えて、自分自身が成長し、社会に出て人の役に立つ人間となってくれることを一番に望んでいる。OBとして私はそのための応援者であり続けたい。