寄稿 高校4回

負けて悔なし千代原頭

今泉 清

「春日原頭笛の音高し」の部歌通り、ここは春日原グラウンドである。昭和二十七年正月の全国大会出場権をかけての県決勝戦、宿敵修猷館との対戦である。前半5-0とリードされ試合は後半なかば、福高健男児の猛烈なファイトで5-5の対スコアとなり、いよいよ白熱化、福高優勢の時である。修猷館の闘将石橋主将がその白熱化したなかで「国体は俺達が行って秋田工業に負けたが、今度の全国大会には君達が行って、その秋田工業を破って来てくれ」と、言葉少なにこのような意味のことを口走ってプレーしたことを明確に覚えております。

結果は、その後修猷館SH水野君、SO吉田君の巧みなステップとコースで虚を突かれ、8-5のスコアで惜敗いたしましたが、私達は満足でした。国体に健闘した修猷館に一時勝利を諦めさせる程猛練習の努力をしたからです。ただ福高にとって今でも惜しまれてならないのは、8-5となったノーサイド直前私のロングキックがFBオーバーとなり、球が修猷ゴールポスト直前を点々とし、それを快走よく福高RCTB井上真作君がつかむと同時にタックルされ、ダンボールした球を井上君が「ここバイ! 頼むバイ!」と、手で数回球を叩いたのが「ピックアップ」の反則となったことで、今その時その周辺にフォローしていた福高の面々は、RWTB木林博一君 LCTB池田誠君、主将のRFR井上賢一郎君だったように思われ、逆転のゴールは確実だったと存じます。

その時のレフェリーが明大OBの松岡正也さんで、「ピックアップ」の笛を吹かれた瞬間頭に手をやられた事を想い出しました。

余談になりますが、この井上真作君の「ピックアップ」は井上君自身の好人柄から出たものと、私は現在でも感じております。と言いますのは、彼は常日頃大変人柄がよく人のお世話が痒いところまで手の届くことに原因があったように思われます。

が、しかし総合的な力は修猷館が一枚上手であったことは、その後大学、実業団の第一線で活躍された藤島勇一君、吉田君、野中君、大野君、内藤君(早大)、藤井浩一君、藤田君(慶大)、梅津昇君(明大)、石橋君、水野君、森部君(西南大)、中川君(九電)からも察せられるようです。

一方私達福高四回卒のメンバーの中で、大学、実業団でプレーした者はFWの平田利光君(明大-日本鋼管)と私(明大-ゼニスコンクリート)の二名のみで、もし同期のOB戦でもやれば百パーセント完敗は必定かと思われます。

当時福高ラグビー部に出入りした同級生の名前を想い出し列記してみます(外れた方はお許し下さい)。

木林博一君(立大―福岡県ボウリング連盟理事長)、井上真作君(山口大永井パン)、池田誠君(自家営業)、井上賢一郎君(福岡大―福岡製紙)、亀井宣海君(水産大―昌和水産)、保田守也君(福岡銀行―参松工業)、山本彰君(消息不明)、馬場正規君(現野村姓、九大医学部野村クリニック)、光安喜久雄君(死亡)、渡辺大司君(明大━自家営業)、洞尚君(慶大―ホラヤ社長)、阿部道生君(福教大 金光教本部)、中村良三君(西南大—喫茶プランタン経営)、杉山良夫君(西南大一電子技建)、高杉信義君(高杉製薬)、八尋尚明君(九州三菱自動車)、三宅正信君(中央大―京都市役所)達で、その若きラグビーへの情熱を勉学そして仕事に振り向けられ、現在皆企業の幹部として、福高ラグビー在籍時代以上に大活躍されておられることは大変慶ばしいことと存じております。

平田君も私と同感と思いますが、大学及び社会人で我等同期生と共に闘えなかった一抹の淋しさはありました。

ところが私が現役を退き福岡の「どんたくラガーズクラブ」という名門クラブに入会しました時、既に福高時代、部員でなかった同級生の白水敬右君(教育映画配給)が、クラブのWTBとして活躍されているのを拝見し、懐しさはもちろん福高ラグビーの伝統の偉大さに改めて敬意を表しました。
(ラグビー部だけでなく最後に私達在学六年間、人間性に基く教育と数々の面倒をみて頂きました 「ガムチャン」こと小川一先生に、高校四回を代表しまして有難く厚く御礼申し上げると共に、御健康をお祈りいたします。

当時のベストメンバー

FW 光安・大坪・平田・木下・柴田・高松・山本・井上(賢・主将)
HB 麻生・今泉
TB 阿部・池田・井上(真)・木林
FB 保田

同期生のプロフィール

井上賢一郎君――右のバックローウイング。主将として誠実な人でした。

平田利光君――右のフッカーで彼のタックルは一発必殺で明大入学時、全日本の佐々木選手すらも球を放り出して逃げたくらいです。反面、キックとなると、あの大きなラグビーボールに足が当らない程のオンチな面もありました。度胸満点、高校時代から柳町、 大浜へ女郎買いに行ったのは彼だけと思います…。
この一発必殺のタックルが縁結びで日本鋼管のアルバイトから職員に抜擢され、日本鋼管ラグビー部主将、そして日本鋼管労働組合執行委員長になったとき、鉄鋼連統一ストにスト中止をやったり、波乱万丈の人生が似合っている男です。

光安喜久雄君――数年前交通事故で亡くなられましたが、面白い男でした。眉毛が薄いのを気にし合宿中濃くするため何回もソリ落し眉墨付けてスクラムを組んで顔を上げた途端丹下左膳。御冥福をお祈りします。

馬場正規君――ラグビー部と言うより学校一番の秀才で定期試験 模擬試験等常時一番の成績で、私共劣等生の誇りでした。

山本彰君――スクラムセンターが本職で、威勢のよい掛声のようにはルースに突入してなかったようです。

井上真作君――右のセンターで大変器用なプレーで女子生徒の応援も多かったようです。 家が馬出電停の処の散髪屋で、いつも頭はきれいにかり上げ「真チャン」の愛称で親しまれ、木林君のラブレーターの代書人でした。

木林博一君――右のウイングで得点力は真チャンと共に抜群でした。校内外共にボス、現代風の番長でありましたが、一年生の時九州大会宮崎に於て、決勝佐賀高校戦を前に加藤先輩が盲腸にかかり、急拠木林君が右センターで初出場ということになり、その前夜は不安のため番長らしからぬ素振りで心配しましたが、見事試合にはその重責を果たし立派なものでした。

池田誠君――ポジションは左センター。走力、体力はチームでナンバーワンでしたが、気持ちの優しいのが欠点で、福岡商業の選手曰く、「あの大きな池田が温和しいけん助かりますバイ、暴れられてんナッセー!たまりますもんかい」と本当のことを白状していたことを覚えております。 当時食糧難の時代に彼ほど素質
に恵まれた男は稀で、関東大学へ進学していれば、オールジャパンになったであろうと思います。

保田守也君――ポジションはフルバック。学問とラグビー共に天才肌でなく、一日一日の努力の積み重ねで両立させた、非常に真面目な人格者でありました。タックル、セービング等セオリー通りで後輩諸君に是非見習ってほしいプレーでありました。

今泉清――ポジション一年生FB、二年生SH、三年生SO。私自身のことですので省略しますが、一年生のFBで全国大会に出場しました時、村野工業、秋田工業戦のキックオフの笛が鳴るまで緊張と恐ろしさで、震えていたことを想い出します。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.162)