寄稿 高校43回

「日本一の練習」とは、つゆ知らず

入江剛史

 高校生のとき、いつも僕は窓の向こうの空を見つめていた。きょうは雨が降らないか、きょうは雨が降らないか。そればかりを願っていた。

 高校からラグビーを始めた私にとって毎日が「地獄」だった。雨の日は幾らか練習が軽くなるので、朝は天気予報をチェックし、昼は雨雲を観察していた。午後に激しく雨が降り、心の中で歓喜を叫んだら、ぱたりと練習直前にやむ。心が沈んで、床の一点を見つめた。

 そんな私がなぜラグビー部に入ったのか。中学時代に柔道クラブで小学生女子にも投げられ、途中で辞めたこともあり、「厳しい環境で自分を変えたい」と入部した。その小学生女子が、後に五輪で金メダルを取る谷亮子と知ることができたならば、思春期の傷はそう深くなく、ラグビーとは出合っていなかったかもしれない。

 高校に入学したばかりの私は当然ながら、監督の三野紀雄先生と藤浩太郎主将との間で「徹底的に基礎プレーを磨き、基礎体力を強化する」契りが交わされていたことは知らない。「日本一厳しい練習」に飛び込んだ。

 4人組でパスをつなぎながら50メートル走って、その戻りはうさぎ跳びに手押し車にタイヤ押し。戻ったら、すぐにボールが蹴り出され、それを拾いにいく。2時間、100本。その名は確か「ショートダッシュ」。人間は限界が近づくと、あらゆるところから変な液が出ているような気がしたり、「スポ根アニメ」の主題歌が脳内循環したりする。

 全国大会「花園」出場を重ねてきた福高は苦しんでいた。中部支部予選や県大会序盤での敗退が続いていた。それでも三野先生は「花園」出場を目指すという旗を決して降ろさず、1年生の私たちも、とにかく「福高は花園」と思い込んだ。だから「日本一の練習」にも耐えられた。

 その目標には届かなかったが、決戦を前にした、あの澄んだ空気感を先輩たちに伝えていただいた。私が1年生のときは糸島高戦、2年生のときは西南学院高戦。鋭く前に飛び出し、低いタックルで刺さる。何度でも何度でも。倒れて立ち上がり、また立ち上がる。そして勝利。私は試合に出ていないのだが、張り詰めた空気にグラウンドで背筋を伸ばし、福高ラグビー部の一員である自分を誇らしく思った。

 3年生の最後の大会。後輩たちには申し訳ないが、あの澄んだ空気をつくれないまま終わったように思う。

 蛇足ながらも、高校卒業後の自分。一浪して福高の練習に参加していると、早稲田大ラグビー部で活躍していた浩太郎さんが声をかけてくれた。「入江、うまくなったな。早稲田にこんか」。勘違いした私は早大ラグビー部に。県代表の肩書もなければ、身長165センチで、体重75キロもないフロントロー。誰にも期待されてなかった。

 当時、新入生は入部直後、ひたすら走る練習を課せられた。高校日本代表とか何とか県代表の同期も隣で苦悶の表情を浮かべていたが、自分は案外平気だった。あの「日本一の練習」に比べたら、心身ともに楽に感じた。「やれるんじゃないか」と勘違いした。その後、幸いにも、あの練習を超えるものには出合っていない。  

 大学でラグビーをやめ、しばらくして自分の結婚式で、三野先生が挨拶してくれた。「つよしは高校で膝を鍛えていたから、早稲田で試合に出れた」。その場にいた多くの方々には、この意味が十分に伝わらなかったかもしれない。この言葉が腹落ちしたのは、「日本一の練習」をともに耐え抜いた同志だけだろう。