寄稿 高校44回

スクールウォーズ〜泣き虫先生の…


簑原 備

みなさん、こんにちは。高44回卒の簑原です。
高校卒業後、神戸の大学に進学しそのまま関西にて就職しましたので福岡を離れて彼此30年以上となります。人生100年時代のちょうど半分を迎えるお年頃です。

私が福高ラグビー部に入部したのは、紛れもなく父親の刷り込みの影響です。父は私の更に30年前に福高生でしたが、身体も華奢で親からラグビー部に入ることを全力で反対されたと、幼少の頃から聞かされてました。そんな父は息子たちを足繁く冬の大学選手権の試合を観に連れて行ったり、正月は社会人王者と大学王者の一騎打ち、日本選手権を家族でテレビ観戦したり、そう言えば誕生日に頼んでもないのにラバーボールをもらいました。ラグビーがなんのこっちゃ分からない幼少期に、空き地で蹴ったり投げたりして、なんでやねん?どこ行くねん?と楕円球を追っかけ回してました。(回想当時は博多弁です。)

当の私自身もそれはそのまま親の遺伝子を引き継いでいますので、身体はほっそいし中学は帰宅部だし、スポーツは観るもの、でしたので福高受かった暁にまさかのしかもラグビーなんぞやに入部するとは夢にも思ってませんでした。怖いくらい完全に刷り込み、無意識の洗脳の成せる技です。(あとテレビドラマ流行ってましたね)

高校の3年間は、個性豊かな1つ上の先輩方と、個性のみならず実力もメキメキとつけていった1つ下の後輩達との間で、我々44回生は気づけば3人でした。沢山いたはずの同級生は、皆それぞれの理由があり、私達とは別の方向へと向かって行かれました。

我々のキャプテン石田は校誌福高に「部員の減少」「部の弱体化」と言う難題をテーマとしてあげるくらい最後までチームのために責任感と重くのしかかる伝統と闘ってました。
バイスキャプテン森は、我々の中でも唯一の経験者であるが故に1年生の時から既にその重圧とも闘ってました。
部が崩壊せず、なんとか我々が最後までやり通せたのは、そんな2人の頑張りと、ついて来てくれた後輩達のお陰だと本当に思います。吐くほどきつい練習をしても、全く上手くはならなかったけど、3年間最後まで向き合えた事だけは自分を誉めてあげたいと思います。
あと1年にも満たない本当に短い間でしたが、父親がファンでもあった「ヒゲの森」こと森重隆さんに44回生が見てもらえたことはかけがえのない財産です。森さんからは恐らく窮屈そうにラグビーをやってるように見える3人に、もっと楽しんでラグビーをやれよ。と勇気づけられた気がします。

1つ下の後輩達は、我々が卒業した次の年に、福岡県大会決勝で東福岡を相手にやってくれました。改めて彼等の凄さに3人で興奮して感動して涙して、誇りに思ったことを今でも覚えています。

最後になりますが、福高ラグビー部創部100周年本当におめでとうございます。その中でのたった3年間が自分の人生の糧になっていることは間違いありません。一緒に闘った仲間と、厳しく指導してくれた監督コーチをはじめ多くの先輩方と、下から支えてくれた後輩達、そしてラグビーに向き合わせてくれた両親、ありがとうございました。全ての方に感謝の気持ちを忘れず、人生100年時代のあと残り半分を、めげずに生き抜きたいと思います。

現役の諸君、伝統は頭の片隅くらいに置いといて、高校生らしく自分の目の前のことに真摯に精一杯取り組んだらええと思う。高校3年間は君たちが主役だ。関西の地でまた花園に応援に行けるように待ってるよ。頑張ってください。