寄稿 高校50回

原点

林宏和

 楕円球を追いかけた高校時代には思いもしなかったことですが、今は新聞記者としてグータッチで有名なプロ野球監督を追いかけています。早いもので、もうすぐ44歳。東京ドームに通う日々は、入部した15歳の時には想像もしていませんでした。福高の試合はユーチューブばかりで、生で観戦する機会は激減。それだけに、福岡を訪れた際は、自然と母校のグラウンドに足が向かいます。

 ちょっと遠めからでも、まぶしく映る選手たち。当時の記憶がよみがえります。「もうちょっと、こうしていればなあ」と悔やんだり、「あの時の自分には、あれが限界だったかな」と自らを慰めたり。一つ、胸を張って言えるのは、「楽しかったなあ」と。苦楽をともにした50回の仲間と過ごした日々は、自分の原点であり、財産です。

 先輩方には、大変お世話になりました。

 1年時は、現監督の原雅宜主将。原さんがけがでプレーできない時、チームのためにグラウンドの小石を拾っている姿を見て、この部に入って良かったなと思いました。2年時は室井鉄平主将。室井さんと言えば、ダルセンでしょうか。その顔色をうかがい、「きょうはあるかなあ」とおびえていたことは、いい思い出です。

 そして、自分たち50回は、郷原裕季主将でした。今や、OBOG会幹事長代理で、100周年記念事業実行委員長だそうです。最後の県大会は修猷館に競り負け、初戦敗退。郷原主将を男にできなかった。相手のナンバー8に吹っ飛ばされ、勝負所では得意の倒れ込み。映像を見返すと、自分のつたないプレーに目を覆いたくなります。

 まあ、恥ずかしいぐらい情けない選手でした。森重隆監督には、しかられた記憶ばかりが残っています。練習試合で倒れていると、「ラグビーは痛いスポーツだぞ」。大声が飛んできました。2年生の時の夏合宿は、足首を骨折して練習を休んでいるのに、夜の体育館ではバスケットボールや卓球に夢中となり、走り回った。当然のように、「仲間がどう思うか考えているか」と諭されました。

 このほか、監督から赤白ジャージを手渡されたときに、片手で受け取ってしまい怒られたことも。そんな自分を見捨てず、社会人になってからもお世話になりっぱなしです。森さんの懐の深さ、ひいては部の懐の深さをひしひしと感じます。

 最後に白状すると、つい最近も携帯電話の調子が悪かったせいか、森さんに誤発信してしまったことがあります。折り返しの電話が来て、大慌て。苦し紛れに、「フランスにいつ行くんですか」と尋ねたら、「まずは『お元気ですか』と聞かんか」と監督にまた、しかられました。今ごろは、日本ラグビー協会名誉会長として、桜の戦士たちに温かいまなざしを向けていることでしょう。遠いフランスの地で。拙稿に見向きもしないだろうと高をくくっていますが、また怒られないか、少しひやひやしております。