保善を破り全国制覇
山田 敬介
福高を卒業して早や十八年になります。十年一昔と申しますが既に二昔近く前になるわけです。だが我が福中・福高のラグビー史は営々半世紀にわたり諸先輩方が築かれたものであります。
先日も福中・福高のラグビー五十年祭に参加し長先生をはじめ多数の先生、先輩方が列席され、その層の厚さ広さを目の当たりに見るにつけ、歴史の古さを感じざるを得ませんでした。
さて私がこのラグビーを始めたのは福高のラグビー部が優秀な先輩方の築かれた伝統あるものであったことと、兄三人がラグビーをやっていて、それに感化されたからです。中学時代は野球をやっていましたが、高校に入った時、同じスポーツをやるなら強い、そして伝統のある部に入部しようと決意しました。
同級生には白垣君、野見山君のほかに七、八名が入部したのですが、厳しい練習で一人、二人と脱落していき、夏合宿時には三人だけになってしまいました。
一年生の時の夏合宿は春日原ラグビー場で行なわれ、合宿所は近所の中学校でした。新島先輩をはじめ、明治、早稲田、慶応、立教、それに地元の西南等の現役の先輩方がコーチに来られ、少なくとも頭数においては大学の夏合宿に我々が参加しているような錯覚を覚えるほどでした。
コーチしてくれる先輩の方が人数が多く、マンツーマンで練習できるという全く恵まれた環境でしたが、我々にしてみれば一時も息を抜くことができず、生き地獄みたいにつらく激しい練習でした。
そういう厳しい合宿中にも下級生は三日に一度は炊事当番(皆が昼間練習している時に部屋の掃除をしたり夕食の食卓を並べたりする)というのが回ってきて、その日は息が抜けるのです。今日か明日かと心待ちにしていたのですが、どうしたことか遂に私だけはその任を与えてもらえずガッカリしたものです。
夏合宿も終わりいよいよシーズンに入り、柴田キャプテンの率いる我が福高フィフティーンは第七回仙台の国体において準決勝で宿敵秋田工、決勝で北見北斗高をそれぞれ降し、全国優勝(現在のようなブロック優勝ではない)を遂げたのです。
その余勢をかって、正月西宮で行なわれる全国大会を目指して猛練習に励みました。しかし結果は事実上の優勝戦と目された対秋田工との準決勝で、5-5の同点ではあったが、反則負け(当時は同点の場合は反則の多い方が負け)となり涙をのみました。
四月、我々も二年生になり山崎、金子、高谷、井上、柴田君等が入部し、春の新人戦に臨むことになった。しかし昨年のチームから大量十一人の主力選手が卒業で抜け、チームの弱体化は免れず、今年はどこまでやれるか先輩方も心配されたことと思う。だがライバル修猷館と決勝を争い8-6で負けはしたものの、その
時のチーム力からすればまずまずの結果であった。
後にして思えばこれが後で重大な意味を持つようになるのであるが、その話は後回しにするとして、ここでまたまた太陽が黄色く見えてくる、過酷な、生きた心地のしない夏合宿が始まるのである。
この年は部員も少なく十七、八名で一チームを編成するのが精一杯でした。先輩方は例によって二十名くらいコーチに来られ、毎日我々の練習台になってくれました。
厳しい練習のためケガ人続出で夏合宿の終わり頃には十二、三名になってしまい、先輩方に入ってもらってやっと練習マッチができるといった状態でした。
修猷館、福岡商との練習試合にも負けることがしばしばで、 そのたびに練習でしぼられ、早く夏合宿が終わるよう祈りたい心境でした。
夏合宿がやって来るたびにどうしてこんなものを始めたのだろうと後悔しました。しかしその後十年もラグビーと縁が切れなかったところをみると、男性的なスポーツであり、また勝利の美酒の味が忘れられなかったのであろう。
やがて夏合宿も終わり九月、いよいよ国体の予選が始まりシーズンインである。
夏合宿の傷も癒え国体一回戦の相手は大した伝統もない香椎高である。これは難なく勝てると思ったのが大きな間違いで、ものの見事に6-0で完敗したのである。先に述べた春の新人戦には大量の卒業生を出しながらも一応の成績を上げたのを良いことに伝統の上にあぐらをかいていた結果がこれである。当然の報いであったろう。
予選の一回戦で敗れるというような屈辱は、福高のラグビー史上恐らく初めての出来事であったろうと思われる。その試合には新島先輩は所用で来られていなかったが、まさか負けるとは思ってもおられなかっただろう。試合が終わって春日原ラグビー場からの帰り、皆は負けて口惜しいというより、何かはずかしい、先
輩に合わせる顔がないという気持で一杯であった。
例年ならば国体に出場し、その間の試合のコンディション調整で練習が軽くなることもあったが、前述のような結果のためその必要はなく、九月後半からまたまた夏合宿並の猛練習が始まるのである。
十一月になり今度は全国大会の予選が始まる。
点差こそ僅少であったがFW戦で優位に立ったため、まずまず安定した試合運びで勝ち進んでいった。
準決勝まで進んだところで相手は憎き香椎高である。この試合はFWが奮闘し3-0で完勝。国体予選のうっ憤を晴らしたのである。
決勝戦は好敵手修猷館。ここまでくれば石にかじりついても勝ちたいという一心で練習に励んでいたが、その時グラウンドにひょっこり来られたのが村上令先輩である。
御存知のとおり村上先輩は戦争で右腕を失くされ、スチールの義手をつけておられる。練習していた我々を全員集められ、試合に臨む心構えを教えられた。
その時の話は「お前達のテクニックは修猷館より劣る。今更練習してもその差は如何ともし難い。それに勝つには気力の充実以外にない。もし気合のかかっていない者がいたらこの義手で(我々は村上先輩を失礼ながら〝鉄の爪”というニックネームでよんでいた)殴ってやろうか」ということで、鉄の爪で殴られたのではかなわないが、とにかく気力の充実以外にないことを強調された。
我々はこの話を聞いて身が引き締まり、また相手より下手くそだと言われたことで逆に闘志みたいなものが生まれてきた。
十一月二十九日、平和台競技場は快晴のコンディションである。修猷館は平島、岩田、久保君等の豪華バックラインを擁する均整のとれた強力チームである。一方の我々はFW中心のチームでバックスにきめ手がなく、スタンドオフでパントを上げFWがラッシュするという単純な戦法である。
試合は開始早々WTB村田主将が敵のこぼれ球を取ってトライを上げ3点を先行した。その後一進一退を繰り返したが、両軍共トライを奪えず結局この虎の子の3点を守りきり、修猷館を破って晴れの代表に選ばれたのである。
この年は社会人代表九州電力、新制大学代表福岡商大(現在の福岡大)がそれぞれ選ばれた。
新島先輩の指揮のもとに福高グラウンドにおいてこの代表三チームによる合同練習が行なわれた。福高FWも強力で福岡商大相手にタイトスクラムの練習では、十回組めば七、八回は押し勝った。練習が終わって福岡大の皆さんが、先輩達にお前達は高校生にも勝てないのかと、ハッパをかけられているのを見て気の毒に思ったことを覚えている。
一方練習も十二月のことなので日没が早いためボールに白墨を塗っての猛練習であった。
こうした合同練習も終わり、いよいよ新春西宮で行なわれる全国大会を迎えるのである。宿舎は例によって阪急宝塚沿線の中山寺である。
第一回戦の相手は確か東海代表のチームだったと思うが、これには十二、三点取り比較的楽勝であった。
第二回戦は盛岡工高。全国大会にはしばしば出場はしているものの一、二回戦で姿を消すことが多く、我々にはあまり印象に残るようなチームではなかった。しかしいざ試合が始まってみると、FWは強力で防戦一方の苦しい戦いとなった。結果は0―0の引き分け、辛うじて抽選勝を拾った。試合内容からすれば明らかに我々の負けだったと思う。相手FWが強力だったせいもあるが、やはり我々に気のゆるみがあったことは否めない。
その夜新島先輩が福岡より来られ、雷が落ち、我々の目を覚ましてくれたのである。高校生のラグビーは技術面の差はそれ程あるものではない。従ってちょっとした気のゆるみが勝負を左右するものだ、と全員正座をさせられ大目玉を頂だいしたのである。
それからは外出禁止で、出られるのは西宮ラグビー場に行く時だけである。これは我々のエネルギーが試合の時に爆発するよう新島先輩のとられた手段だと思う。
準決勝は東北代表金足農工。この試合は新島先輩のお灸が効いて8-0にて完勝。
いよいよ決勝進出である。負傷者も特になく、あとは人事を尽して天命を待つの心境で、あまり気負ったところもなかったように記憶している。
相手校は東京代表保善高校。慶応高校等の強豪を倒しての堂々の進出である。このチームの特長はFWが強く、比較的小粒であるが、タイトスクラムは地面にへばりつくばかりに低く、また集散にしても素早く高校のレベルにしては最高であったと思う。バックスも都会チームらしい洗練されたものを持っており、チーム
全体としても少なくとも我が福高よりは均整がとれていた。当然予想でも保善有利説が多かったのだがむしろ我々にはその方が気が楽であった。
試合は両者共きめ手がなく、一進一退の内に前半を終了。後半一三分、FW藤バイスキャプテンが密集から抜けだし、スクラムハーフ山田(正)がこれにフォロー、ポスト右に全員が押し込むようにしてトライ。ゴールなって5点。
結局この1ゴールが決勝点になり優勝したのである。
この優勝を振り返ってみると、予選、本大会を通じ試合内容は別にして、点差は常に辛勝のケースである。一試合の平均得点が6点ということからしてもそれがよくわかる。
新島先輩、門田先生をはじめ先輩方の良きアドバイスがあったことは言うに及ばないが、この苦しい試合の連続に打ち勝つための精神面の充実が試合ごとに強まってきたことがその勝因の第一に上げられよう。それと本大会は一回戦を除き、雨でグラウンドコンディションが悪かったこともFW中心のチームである我々に
は有利であった。しかし何と言っても一糸乱れぬチームワークと闘志がこの優勝につながったことだけは自他共に認める所である。
こうして保善高を破り、優勝を成し遂げたのであるが、一昔前にも準決勝で対戦したことがあり、その時に石本先輩が試合中に頭部を強打し不幸にして亡くなられたいきさつがある。その時は惜しくも決勝で敗れたのであるが、当時のことを保善高の高崎校長が覚えておられ福高に祝電を打たれたのである。その内容は「石本君おめでとう今宿願の優勝成る」という主旨のものであった。
このことは西日本新聞にも大きく報道され、スポーツマンの美談として話題になったのである。十何年も前の出来事を記憶され、祝電を頂戴した保善高にただただ感謝し敬意を表する次第です。
またこの年の福岡のラグビーは、前述の合同練習をした福岡商大は決勝で惜敗したが、九州電力も社会人大会で優勝したのである。
次の年度になると村田主将以下四名の卒業生を送りだしたが、十名が残り、また優勝したこともあって有望部員も入部しチーム編成も楽であった。
一年生であった久恒、山下、植木、梅津、小林、行徳、広田君等も成長し、一段とたくましくなった。それで前年に比べバランスのとれたチームになるだろうと予想されていたが、前年が一、二年生主体だったことからすればそれは当然であった。春の新人戦も順調に勝ち、相手になるのは修猷館くらいのものであった。
この年は国体が北海道で八月に開催されるため、予選が四月から始まり五月初旬に決勝戦が行なわれた。その当時九州から北海道に行くことは外国にでも行くようなもので、我々としてもどうしても勝って参加したいと願っていた。そのためには練習以外にないと結論し、三月末の修学旅行を三年生は全員サボタージュして練習に励んだのである。
今にして思えば遊びたい盛りの年頃なのによくも思いきって練習の方を選んだものである。先生方には小言を頂戴したが、そのかいあって決勝で修猷館を11-3で破り代表権を獲得したのである。
この試合は前半七分、九分に1トライ、1ゴール。さらに後半二一分に駄目押しトライを加え、終了間際に1トライをゆるしたものの、まずはFW、バックス一体となったきれいな試合運びで完勝した。
これで年二回のビッグイベントである国体と全国大会(前年優勝のため推選出場)の出場権を早々と獲得したので夏合宿も八月に国体が開催される関係で練習マッチも少なく、チームプレー主体の比較的楽な練習であった。
国体では一回戦魚津高と対戦、これは難なく降したが、準決勝では宿敵秋田工と対戦、6―3で涙をのんだ。前半3-3、後半3-0で試合内容は互角だったと思うが、心構えの点で劣っていたと思う。国体の出場権を得るまでは修学旅行にも行かずに練習に励み、その成果が現れたわけだが、一旦決っていざ北海道に行く時には何か物見遊山といった気分になっていたようだ。
高校生の試合はテクニックもさることながら、いかに精神面の充実が大切であるかはこのことからも知ることができる。
さて全国大会は前年度優勝校ということで推選で出場。その当時の新聞等の予想では優勝候補に秋田工、慶応高、熊本工、福岡高、第二グループに修猷館、天王寺高、盛岡工をあげていた。地元の新聞でも、願わくば決勝戦は福高修猷の地元同士の戦いにと書きたてた。
一回戦は四国代表松山商と対戦。前半3-0と苦戦したものの後半1トライ2ゴールで、結局16-0で勝った。
修猷館は強豪秋田工と対戦、善戦空しく6-8で惜敗したが、新聞紙上でもその強烈なタックルとファイトは大いに賞された。
二回戦は伝統を誇る大阪代表天王寺高と対戦。FWバックスのコンビよろしく得点を重ね1-3と前半をリード、後半は1トライしか取れなかったが、14-3とまずは快勝のケースであった。
準決勝は今大会屈指の強豪秋田工と対戦。戦前の予想では若干秋田有利であったが、我々も国体の雪辱を期して闘志満々であった。FWの重量と押しでは秋田に一歩ゆずるとしても、集散では絶対にひけはとらない。福高もここに力を注ぎ勝負をいどめば必ずチャンスが出て来る。新島先輩の試合前の作戦もこのようなものであった。
前半やや押し気味に試合を展開していたが、一三分秋田SHにスクラムサイドをつかれ1トライをゆるす。だが試合の流れは未だどうなるか全く予断をゆるさない状態であった。が、一七分福高にとってアクシデントが起るのである。
それはバックローセンター植木君の鎖骨骨折による退場である。八人でもかなり重量が違うのに七人ではどうすることもできず、タイトでは徐々に押されだした。それでも前半は一度は秋田陣に深く攻め込みチャンスをつかむなど頑張ったが、後半になり頼みのFWが疲れ、2トライをゆるし9―0で涙をのんだのである。
残念ながら連覇の夢は消えたのだが、新聞紙上には植木君の負傷が惜しまれるという記事も出ていた、が、これはラグビーの持つ性格からしてケガも試合の内であり、それを考えると完敗であった。
かくして決勝戦は慶応高と秋田工の間で争われ、6-5で慶応高が勝ち二十五年振りに優勝を遂げたのである。
これで高校三年間のラグビー生活が終わったわけであるが、振返ってみると色々の教訓がこの中に含まれている。
一年生の時のチームはFW、バックスともに均整のとれた強力なものであったが、二年生の時はその主力メンバーが卒業、FW一辺倒の変則で弱体チームであった。 三年生の時は前年のメンバーから主力が残り、これもFWが小粒とはいえ、バランスのとれ良いチームだったのである。
ところが戦績を振り返ってみると、強かったはずの一年生と三年生の時には準決勝で共に秋田に敗れ、二年生の弱体チームの時に全国制覇を成し遂げているのである。この弱体チームは予選から全国大会の決勝まで、10点以上取ったのは二、三試合しかなく綱渡りの連続であった。こうした苦しい試合と日頃の厳しい練習
から精神力が充実し立派なチームワークが生れ、全国制覇という輝かしい成果を上げ得たのだと思う。繰り返すようだがこれは高校生のラグビーでは闘志、気力の充実がいかに大切かを物語っている。
逆に一年生の時は国体の優勝校、三年生の時は前年度の全国大会の優勝校、我々はチャンピオンだという過信が頭の一部にあったような気がしてならない。そのことが反則負や負傷退場のアクシデントがあったとはいえ、準決勝で敗れる結果になったと思う。
半世紀に及ぶ歴史を持つ福高ラグビー部ではあるが、伝統とはただ古いだけをもって良しとするのではなく、今なお実力を備え高校ラグビー界に君臨しているということが尊いのである。この事は肝に銘じなければならない。残念ながら好敵手修猷館には今その面影はない。しかし幸い我が福高は今なおその伝統を受け継
いでいる。今後もこの立派な伝統を守るべく、諸先生方の温き御理解と先輩方の御指導、そして現役諸君のなお一層の努力を望みます。
(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.187)
(山田敬介・・・福高→慶応大 日本代表 cap1)