寄稿 高校9回

第九回卒小史

柴田 学

昭和三十二年元旦、第三十六回全国高校ラグビーフットボール大会が西宮球場で開催され、福岡第一出場校として我々も上阪し、常宿の中山寺にお世話になりました。

正メンバーはFW臼井 (三年)、江藤 (三年副主将)、瓦田(三年)、仁科(二年)、釜我(二年)、岡本(二年)、東田(二年)、三木(二年)、HB柴田(三年)、八尋(三年主将) TB橋爪 (二年)、内山(二年)、二井(三年)、 小串 (三年)、FB江崎 (三年)、新保(三年)の計十六名。

一回戦は、十六試合中、北見北斗対天王寺につぐ好勝負と予想されていた北陸代表魚津との一戦で、事実北見-天王寺以上の激戦となった。試合経過は、前半PGで先行した福高はその後魚津のキックを自陣ゴール前で受けた右ウイング小串が、ゴール前を横走りして、これを魚津FWになだれ込まれて、3-3。続いて、前半終わり近く、ようやく魚津陣ゴール前に攻め入った福高は、相手のキックを、右ウイング小串が受けて、そのまま右隅にトライ、6-3と開いた。後半、福高FW東田が、一度負傷退場する等、ゲームはエキサイトしたが、その後、魚津陣右隅のタイトから、福高ハーフ柴田が逆サイドをもぐってトライし、勝敗の目安はここでついた。非常に苦しい一戦だったが、バックスの差と練習量の勝利と思う。得点結果、9-3で勝ち進む。

(昭和三十一年十二月三十一日付「西日本新聞」を参考にする)

正月二日の第二戦は、水戸農を14-11と破って来た地元大阪の報徳学園と対戦。6−0で無念の涙を呑んだ。

今から回想してみると、三十一年頃はオーストラリアチームの戦法が注目され、今までのタッチ戦法の消極的なものと違って、オープンにボールを回して試合展開し、ゆさぶり、FBのライン参加、バックロー陣とバック陣との連繋プレーが流行の兆しをみせていた時で、新島コーチもいち早くこの戦法を採用し、常にオープン攻撃の練習を積み重ねて来たのだが、報徳学園の場合、都会流の上手な試合運びに惑わされ、力を出し切れず、前半の6点をはねかえすことができずに、ホイッスルが鳴ったことを覚えている。

なおこの大会より出場校は三十二チームに増え、例年の正月一日の試合を、二日早めて十二月三十日より、ニカ所のグラウンドで開戦となった。結果は、秋田工が盛岡工を14―3で破り、優勝した。

以下全国大会出場までの試合経過は、次の通りである。

昭和三十一年、新人戦の下馬評は技術の福高、伝統の修猷、気力の福工と郡部で台頭して来た常盤、嘉穂等が候補に上っていたが、残念ながら、寒い二月の試合と、福高グラウンドで、雪の降る中での対戦だったことのみしか記憶になく、残念に思う。

そして四月、第一回の親善試合として、山口県の峯町に遠征、山口水産と対戦し快勝した。奇しくも後に全国大会で山口県代表として出て来た山口水産と、準々決勝で再度対決を思わせたが、両校共力が及ばなかったようだ。 以後これを機会に両校の親善試合が続けられた。

私共ラガーの精神力、体力、技術の養成として夏季合宿が七月二十一日より三十一日まで十日間、昭和三十年に初の試みとして行なわれた大牟田のグラウンドで、三池染料及び東洋高圧のラグビークラブの御協力で三十一年も実施された。

真夏の太陽の下で鍛え抜かれ、全国大会出場の力を磨いた。もちろんコーチ陣は新島、村上先輩をはじめ、修猷館OBの堀、大塩、海津諸氏等の御協力もいただいた。

私共のチームは二年生のFWが多いためか、伝統のFW福高より先述した外国チームの影響によって、オープン攻撃を主体としたバックスのチームに育てられたように思う。

今まではウイングにボールを回すと、そのポイントにボールを置いての左右のゆさぶりだったが、私共はウイングから大きな高いパントを上げ、FWのフォローで、さらにウイングにボールを回し、パントを上げていく戦法、これはウイング小串の得意プレー。FB江崎のライン参加によるセンター二井とのコンビで中央突破、HB団、八尋、柴田の逆サイドを突くトリックプレー、FW第一線の江藤を中心にする瓦田、臼井のドリブル戦法が思い出される。

いよいよ国体予選が修猷グラウンドにて開始された。福高は九月九日一回戦で西南を34-0、九月十一日二回戦で三池を32-0と大勝。 九月十六日久留米医大グラウンドで福高-常盤にて国体代表決定戦となる。戦いは常盤FWの強い当たり、HB団の巧い球さばきと、予選で大差で勝って来た気の緩みで、少差にて、福岡県代表の座を常盤に持っていかれた。苦い思いだけが甦る。

しかしラガー生活の最後の夢、全国大会出場を目標に、二カ月間、常盤戦での敗戦の原因、FWの当たり、FW、HB団の連繋プレー、精神力の特訓を受け、十一月より九州大会、全国大会予選が始まった。

一、二回戦はシードされ、十一月十一日、福高グラウンドにて三回戦糸島高との28-0の勝利からで、中部地区予選は問題なく、県予選の一回戦は十一月十八日福高グラウンドで小倉工と対戦、8-0で勝ち、十一月二十三日九大グラウンドにおいてライバル常盤と準決勝で再度対戦。見事、特訓のFWの強化、HB団の連繋プレーが開花し、国体代表決定戦の汚辱を拭い、前半8-5、後井6-0、計14-5にて雪辱を果たしました。

なお昭和三十一年より福岡県代表は二チーム出場できることになり、この一戦で全国大会出場権は握ったのですが、第一か第二出場校かの優勝決定戦が十一月二十五日九大グラウンドにて福高―福工の間で争われ、前半8-6、前半3-3、結局1−9で県大会に優勝し、名実共に第一出場校となりました。

引続き 佐賀県武雄市で十二月一日九州大会が行なわれ、全国大会佐賀県代表竜谷を一回戦で9-3、十二月二日大分県代表舞鶴と対し、前日の竜谷との対戦で正メンバーのFW江藤、瓦田の二名が負傷で欠場し、代わりに一年生の玉江、深川を加えての戦いにもかかわらず、バックスを走らせ2-0で快勝、九州大会優勝を飾りました。

以下全国大会出場の模様は、初頭の通りです。

また昭和三十一年一月十五日、朝日新聞招待試合の前座試合として、伝統の福高 修猷館の対抗試合があり、全国大会第一代表校としての貫禄を示し、高校ラガー生活最後の試合を勝利で結んだことは私の一生の思い出として、悔いを残すことなく、心に焼きついています。

なお文中の敬称、先輩の方々で御協力いただいた御名前等は、紙面の関係で、大半略さしていただいていますので、悪しからずお詫び致します。
対戦記録詳細は、記録欄を参照して下さい。

(昭和49年 福中・福高ラグビー部OB会発行「福中・福高ラグビー50年史 千代原頭の想い出」P.195)