寄稿 高校54回

赤白ジャージに憧れて

島正太郎

私は博多区奈良屋町で育ち、5歳からぎんなんリトルラガーズというクラブでラグビーを始めました。福高OBメンバーで結成されたクラブであったことから、コーチを慕っていた私は自然と福高ラグビー部に憧れるようになりました。小・中学校と必死に勉強して15歳の春、念願の福高ラグビー部に入部しました。

それまで10年間ラグビーをしていた私はそれなりに自信があったのですが、先輩方はやはり身体つきが違いました、小手先の技術は通用せず、何度抜きにかかってもタックルにいっても跳ね返されました。当時は土のグラウンドでしたので練習では生傷が絶えず、いつも肘や膝、手の甲に軟膏を塗ってガーゼを当ててました。せっかくかさぶたになっても練習ですぐに剥がれて、また膿んで、の繰り返しでした。青あざやガーゼだらけで授業を受ける姿はまるで負傷した軍人のようでした。

憧れであった「赤白ジャージ」獲得のため、単純で猪突猛進型の私はとにかく自分を追い込んで体を鍛えました。当時の監督であった森重隆さんには、「タックルされても痛いと思うな。誰やと思え。」とよく言われました。身体が小さかった私はタックルだけは誰にも負けまいと毎日毎日がむしゃらにタックルの練習をしました。先輩方に挑んでは、ぶつかる度に耳が擦れて赤黒く腫れあがり、遂には立派な餃子耳が完成しました。ラガーマンの間では畏怖の対象となり誇らしくさえありましたが、今ではイヤホンが入らなくて苦労しています。

 大変だったのは練習だけではありませんでした。当時は上下関係が厳しく、規律が乱れると俗に言うシゴキが練習後に待っていました。練習の終わりが近づくと「今日は無事に終わるだろうか」とよく怯えていたものです。試合前には相手チームのジャージを模した紙を地面に貼って踏み絵にしたり、タックルバックに相手のチームカラーと同じ色のテープを巻いてタックルしたり、といった伝統がありました。今でこそなかなか宗教がかっているように感じますが、当時の私はそれを疑問に思うこともありませんでした。周りの仲間たちも、踏み絵をスパイクで蹴り破り、相手チームカラーのタックルバックをなぎ倒し、涙ながらに円陣を組んで部歌を猛々しく歌っては闘争心を奮い立たせていました。

そんな苦労を共にした仲間たちと切磋琢磨した甲斐があり、とうとう「赤白ジャージ」を手に入れることができました。先輩方が繋いできた「赤白」を着て試合に出ることができた時は感無量の思いでした。もちろんすべてが順風満帆なわけではありません。試合では勝つことよりも負けることが多く、「もっとこうしておけば…。」と後悔することも多々ありました。それでも今、社会人になってハラハラドキドキすることはあっても高校時代ほど心が昂ることはありません。大袈裟でありますが、まるで命を燃やすように生きた三年間でした。 ラグビーで鍛え抜いた経験は今の生活の中で活きています。仕事では共通の目的のために多職種の人間が各々の役割を果たす事で最大限の効果を発揮できるよう努めます。それは勝利のために自分の特徴に合ったポジションでパフォーマンスを発揮するラグビーに似ています。どんなに仕事が辛くても「ラグビーをやっていた自分が辛い、という事は周りはもっと辛いはず。もっと頑張らなければ。」と思って仕事に取り組んでいます。福高ラグビー部という規律や礼節を重んじる伝統の中に身を投じ、自らの心身を磨き、自らの足りない部分を他者と補いながら困難に立ち向かう姿勢を学んだことが役に立っているように感じています。「殺身為仁」は今も私のモットーです。ラグビーを通じ規律や鍛錬を学び、多くの仲間、後輩、先輩方に出会えたことに感謝しています。福高ラグビー部がこれからの時代も末永く繁栄していくことを心からお祈り申し上げます。