寄稿 高校57回

七英雄

虎谷 悠生

高校時代は、ただひたすらにラグビーづけの3年間でした。

平日も土日もラグビー、授業中はひたすら寝て、部活まで体力温存。

放課後は動きにキレが出るように、トイレで出すものを出すのが私のルーティン・・・

創立当初から「文武両道」の精神を受け継いできている福岡高校、不器用な私は勉学に捧げる余裕がありませんでした(不器用と言って逃げていただけですが)。

ラグビーづけの3年間は大変きつく、退部を考えたことは一度や二度ではありません。

それでも最後まで続けることができたのは、情熱をもって指導してくださった先生・先輩方、ついてくるどころか追い抜こうとメキメキ成長する後輩たち、そして何よりめちゃくちゃクセがあり部活以外の時間も笑わせてくれた同期7人の存在でした。

この7人のおかげで、つらく苦しい時があっても、爆笑してすぐに精神がリセットできていた気がします。心のビタミン剤でした。

この「100年の寄稿」に、同期7人の紹介と高校時代の思い出に強く残っているエピソードを記させて頂こうと思います。

高良眞矢:伝説のキャプテン。チームの士気の高さとおふざけの震源地はだいたいここから。

山元昭人:伝説のFWバイスキャプテン。パピヨンプラザ(現パピヨンガーデン)にあるカーネルサンダースにタックルをし、眼鏡を吹っ飛ばす。大学生の時には福岡タワーとスクラムを組んだと噂あり。部活終わりにお腹がすきすぎてペディグリーチャムを完食。

坂本泰弘:伝説のBKバイスキャプテン。とある練習試合で散々な結果だった私たち。反省の意を込め、みんなで坊主にしようと話し合うも「頭の形が悪い」ということで彼だけ拒否。後日、坊主にした7人は籐先生から「心を坊主にしろ」と諭される。7人は坊主し損。

白石涼:伝説の12番。57回生のなかで唯一単独でしぼりをうける。理由は全校集会に向かう途中で、ガムを噛んでいたのがバレたためと思われる。

田村広一:伝説の3番。夏の阿蘇合宿の早朝ランニングは、みんなで「サライ」を歌って彼のゴールを迎えるのが恒例。

時枝剛太郎:伝説の13番。一度退部するもみんなで説得の末、2年の冬に復帰する。青春学園物でなくてはならない存在。復帰してから引退するまで、鎖骨を3回折る。

松山竜太:伝説の4番。キックオフのキャッチ、キャッチした相手へのタックルは大体彼から。切り込み隊長。

私が3年間の中で最も思い出に残っているのは、冬の大会の最後の試合です。

私たちの代は例年に比べると、部員自体とラグビー経験者が少なく、支部大会を勝ち進められるか危うい実力でした。

それでも何とか県ベスト8まで勝ち進み、県ベスト4をかけて修猷館高校と対戦することが決まりました。

修猷館との試合が決まった日、森監督から「ほかの生徒たちに応援に来てもらえ」と言われました。

しかし、時期が冬のため、ほかの生徒は受験勉強の正念場、しかも会場はグローバルアリーナとあって福岡市からのアクセスも悪いため、私は「応援に来る人いないだろうなぁ」と半ば諦めていました。

私たちは手分けをして、朝のHR後・昼休みなどに各クラスを回り、黒板の前で同級生たちに呼びかけました。

「ぼくらの最後の試合になるかもしれません。皆さんの応援の力が必要です。」

修猷館戦当日、会場には応援団と福高の制服を着た生徒が30~40人ほどいました。

人生をかける勉強の時間を削ってまで、応援に来てくれたことを思うと胸が熱くなりました。

試合が終わり、ベンチに戻ると、森監督がいの一番に「応援に来てくれたみんなに挨拶してこい」と仰ってくれました。

8人でフィールドの外に並んでいた福高の制服の団体に駆け寄り、頭を下げました。

涙があふれ、止まりませんでした。

「勝ちたかった」「勝ったところを見せたかった」「もっといい試合を見せたかった」 最後の最後の試合が、3年間で一番の悔しさを感じさせてくれました。