24年6月  西日本新聞朝刊 6/22(金)「福岡ラグビー物語」

2012年6月22日(金)西日本新聞朝刊に、
          福高ラグビー部の関連記事が掲載されました。
                     以下、抜粋しましたので、ご覧ください。

※この記事は同紙朝刊紙上、「福岡ラグビー物語」 をタイトルとし、
    6/20(東福岡高)、6/21(筑紫高)につづいて、掲載されたものです。

他の2校の記事はカラーでしたが、うちは白黒はっきりさせました。

「うちの笑顔は死に物狂いぞ」。

福岡高(福岡市)ラグビー部の森重隆(60)の顔つきが変わっていた。

5月にあった全九州大会県準決勝のハーフタイム。 相手の常勝軍団・東福岡高校(同市)の選手たちが試合中に「笑顔で行こう」 と掛け合うのを聞いていたからだ。

普段は底抜けの明るさで選手たちの笑いを誘う森だが、リードされている東福岡高が 「笑顔」 を強調すると、かつて日本代表として、巨漢の外国人選手にぶつかっていった魂に火が付いた。 思わず 「死に物狂い」 という言葉が口を突いたのだ。

いつもと違う指揮官の言葉に、選手は奮い立つ。

抽選で敗れはしたが、
春冬6季連続で全国制覇した東福岡高と同点でノーサイドの笛を聞いた。

森は日本代表として国際試合27試合に出場。
身長168センチの小さな体で、外国人選手と張り合ってきた。

「死に物狂いでの戦いにラグビーの究極の楽しさがある」。
歴史の中で心に刻んだ言葉だ。

    ■        ■

伝統の 「福高ラグビー」

創部は、旧福岡中時代の1924(大正13)年
と九州の高校で最古を誇り、福岡の高校ラグビー界をリードしてきた。

森は67年、福岡高に入学してラグビーを始めた。

当時の監督は 「神様より偉いとぞ」 と先輩たちが言っていた
元日本代表の新島清で、モットーは

「身を殺して仁を為す」。

仲間のために自らを犠牲にし、チームに貢献する。
伝統を重んじる空気の中で、新島の教えは森に浸透していった。

明治大学を経て新日鉄釜石の日本選手権連覇に貢献。
82年、家業を継ぐために福岡に戻った。

当時は東福岡高が台頭する一方で、全国高校大会(花園)に36回出場、
優勝3回を誇る福岡高は低迷期に入っていた。

3年生部員が3人まで減った時期もある中で森は94年、監督に就任。
が、県大会は1、2回戦敗退が多く、花園ははるか遠かった。

「結果が全てではない。 ラグビーを通して仲間を思いやる心を学んでほしい」。

生徒が高校最後の大会で最高の試合ができるようにと、心砕いた。

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ただ、培ったラグビー魂が森の中で消えることはなかった。 自分たちより強い相手に死に物狂いで戦えるかどうか。 その精神を仲間と共有し、一緒に敵に立ち向かうことで 「120%の力」 を引き出すことができると、信じている。

だからこそ、森はチームの心を一つにすることにこだわる。 練習以外では生徒やマネージャーたちに声をかけ、笑わせる。 笑顔が人々を集める。 次第に若手OBやトレーナーたちが練習に顔を見せ、選手たちは着実に実力を蓄えていった。

監督就任から17年。

ようやく県ベスト4以上に定着するようになった。

県代表が2校選ばれた2010年の第90回記念大会の県決勝。

筑紫高(筑紫野市)を破り、28年ぶりに花園の舞台へ。 伝統復活を遂げた。

OBの一人、武田将揮(22)が5月、森の会社を訪れた。

大学のラグビー部を辞めようと相談に来て、森が踏みとどまらせた男だった。
この春に就職し、初任給で買ったメロンを森に渡そうとやってきたのだった。
こんな男たちの思いが仲間をつくり、増やして 「福高ラグビー」 を支える。

「どんどんOBの集まりに出てこいよ」。 森は誘い文句を忘れない。

トレードマークのひげは白くなった今、

教え子の成長を見届けるのが、うれしくてたまらない。 (敬称略)

(注)原文をそのまま抜粋、引用させていただきましたが、
   段落の改行を勝手に編集させていただきましたことご容赦ください。