「正副級長、集まれ―」。大正13年(1924年)、軍服を身にまとった中園淳太郎先生の大号令に、各組を代表する3年生10人がはせ参じた。そこで突然、こう告げられたという。
「ラ式蹴球部をつくる。正副級長は全部、部員になれ。あと20人部員を集めろ。オワリ」
中園先生は日露戦争に出征した退役陸軍大尉。旧制福岡中(現・福岡高)に教官として着任した。その上衣はゆったり長く、ズボンは太い。もともと肩幅が広いのに、さらに、その存在を大きくみせた。軍帽を目深にかぶり、その手で口ひげをひねる。生徒たちはささやいた。「上官とケンカばして陸軍ばやめんしゃったちゅう話ばい」
大号令で集まった生徒の一人が「運動に自信がないけど、それでも部員になるんですか」と恐る恐る尋ねると、中園先生は言った。「せにゃんもなあ せにゃ」
慶応義塾大にラグビーが伝わり、日本ラグビーが産声を上げたのが明治32年(1899年)。そこから25年の時を経て、大正13年7月11日、九州の旧制中で初めてのラグビー部が福中に誕生した。
ラグビーの何が中園先生をとらえたのか。福中1回の進藤一馬氏の述懐によれば、福中から早稲田大に進学した古賀健次、古川登久茂両氏が夏休みに母校を訪ね、「ラグビーという勇壮活発なスポーツが早稲田で行われている」と中園先生に伝えたという。
柔剣道やテニスなど、あらゆるスポーツで修猷館の後塵を拝す中、ラグビーでは先んじることで、福中生徒の劣等感をなくしたいとの思いがあったのではないか。そう中園先生の胸中を推し量る人たちも少なくない。
その真意はどこにあったのか、今となっては必ずしも定かではないが、創部の訓示で中園先生は、こう語ったという。
「ラグビー競技の主眼とするところは敢闘精神と団結精神。諸君は、この精神を学び取らにゃならん」
敢闘と団結―。これらの精神を植え付けんとする中園先生は確かに厳しかった。福中6回の吉田俊雄氏が残した一文はこうだ。「中園先生はグラウンドに立ち尽くして、あの雄姿を右に左に忙しく移動させながら、広大な満州の戦野に大軍を叱咤するような壮烈な声で私たちを激怒しておられたのである」
タックルしそこなえば吉田氏も怒声を浴びた。「そんなこつでどうする」。だが、勇気を奮い起こしてタックルするうちに、一回りも二回りも逞しくなっていく自らを感じたのだった。吉田氏にとって中園先生は「エズかった」。でも「生一本であり、正義派であり、情熱的であった」。
福中1回の長敬一郎氏にとっても「厳格」であり、「奥深い」人だった。
「決して生徒同士で制裁してはいけない。下級生と上級生が気楽に交わっていることこそ和の姿ではないか」。中園先生は生徒間の暴力を固く禁じた。福中では当時珍しく、下級生は上級生への敬礼を強制させられなかったという。上級生が下級生を殴る口実の多くが、敬礼しなかったことにあったからだ。
中園先生の振る舞いは、まさに威風堂々。でも生徒たちから「淳ちゃん」とも呼ばれていた。おそらく面と向かってではなく。「淳ちゃん」は学校帰りに隣の石蔵酒造に立ち寄り、二合半の角打ちを楽しんだ。いたずら好きな生徒が、酒造を出る「淳ちゃん」に厳正に敬礼すると、「淳ちゃん」も笑いながら答礼し、ひげをひねったという。
あふれんばかりの情熱にさらされた生徒たち。「級長クラスで平均80点」という優等生たちの集まりとあってか、体力や腕力で必ずしも秀でた面々でなかったという。袖のないシャツに半ズボンの出で立ちで、どちらに跳ねるか分からぬボールをひたむきに追い続けた。狭くて固い校庭で、暗くなるまで小休止もなく。
どこまでも熱は伝播していく。夏休みには早大の古賀、古川両氏が福中の校庭に足しげく通い、東邦電力からも慶大出身の横山通夫氏らが連日のように指導にあたった。「まっすぐ走れ」「突っ込め」。ルールの説明からボールの持ち方、蹴り方、パスの仕方まで、手取り足取り教えたという。
創部2カ月後の9月23日、初戦を迎えた。九州ラグビー倶楽部対慶大の前哨戦。全福岡軍の一員として大正12年(1923年)創部の大分高商(現・大分大)と戦った。
当時の福岡日日新聞は「ラグビー大蹴球戦」の見出しで報じた。「春日原グラウンドで九州に於ける初めての蹴球大試合を行ふ事となった。大分高商は九州に於ける斯界の新鋭。全福岡軍は福岡連隊、福岡中学、九鉄の猛者を選りすぐったもの」
互いに一歩も譲らずに迎えた後半。その猛者の一人、福中5回の岩橋二郎氏がパスを受けて疾走、トライをあげた。重い軍靴で練習していたからこそ、走力がついたという岩橋氏。全福岡軍は3―0で大分高商に勝利した。福岡日日新聞はこう世に残した。「全福岡の善戦称すべし。殊に岩橋は異彩を放てり」
無から形を成していく福中ラグビー部。この頃、左座喜美雄主将が、皆の心を一つにする部歌「千代原頭」をつくったという。
千代原頭 緑をこめて
紫映ゆる 玄界の濤
十万夷狄の 血に肥えし
勇者九州男の 誓いは固し
誓いの歌に呼び覚まされたのだろうか―。また一つ、ラグビー部が立ち上がった。修猷館ラグビー部が大正14年(1925年)4月に創部。1カ月もたたない4月17日には早くも福中と対戦した。福中が28―0で初戦を制すると、どちらの申し出かは分からないが、12日後には再戦。福中創部1周年記念試合も含め、この1年で戦うこと5度。好敵手として切磋琢磨していく両校の戦いの始まりだった。
修猷館との激戦を経て、大正15年(1926年)1月には甲子園球場での全国大会に初出場。今に残る「第9回全国大会出場の創部時メンバー(大正14年秋)」の写真をみると、部員たちのジャージーは赤と黒の壇柄模様。今の朱に白の2本線とは違う。部員のそばにいる中園先生といえば、やはり軍服だった。
中園先生は春日原グラウンドなど校外での試合中、味方ゴールポストの真下に鎮座し、軍刀を前について戦況を見つめた。全国の舞台でどうしていたのか、それは分からない。ただ、福中6回の今村嘉蔵氏は試合前夜の記憶を刻んでいた。中園先生は宿舎で部員たちに戦いの覚悟を伝えた。
「刀で相手の胴を切るのではない。腕で相手の胴を切るんだ」
結果は天王寺中に0―21で敗戦。翌日の新聞は「福中は磨かざる玉、九州の男児の意気あり、将来大を成すであろう」と記録した。
この試合、福中から福高へと脈々と受け継がれていく、あの格別なタックルが幾度も繰り出されたに違いない。そこに居合わせた誰もの心身を清めるかのように、おそらく空気は澄み切っていたのだろう。
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※この文章は、福中・福高ラグビー50年史「千代原頭の想い出」に寄せられたOBの方々の文を基に編集しております。
文/入江剛史
編集後記
高43回の入江剛史と申します。
50年史、目にしたことはあったのですが、しっかり読み込んだのは正直、初めてでした。
詳細に紡がれたOBの方々の寄稿文により、当時の光景が眼前に浮かびました。この歴史の先に自分たちがいて、さらに現役が続いていくのだと感じました。あらためて文章に歴史を刻む意味もまた感じました。
こうした寄稿文を私が切り取ることに逡巡もありましたが、一つの文にまとめることで広く伝わることもあるのではないかと思っております。
他校でなく、福高でラグビーをする重み、意義を高校生に感じてもらう一助になればと願うばかりです。
「敢闘に団結」の号令に、私もまた、引き寄せられた一人なのだと感じさせてもらうことができました。
急に力量はあがりませんが、OBならではの熱量を込めて書きたいと思います。