②好敵手との激闘 高みへ―全国優勝

福中大火の跡 正面玄関(左)と校舎跡(右) 福岡高校公式HPより

木造校舎が炎にのみこまれた。1927年(昭和2年)6月の「福中大火」。コンクリート造りの玄関だけを残し、全てが焼け落ちたという。

「福中焼くとも、福中魂は焼けず」。修猷館の寄宿舎を借り、生徒たちは勉学に励み、その校庭の一角でラグビー部も練習を続けた。2カ月後に福中の校庭にバラックが建ち並ぶと、自校で学べるようになったが、校庭が狭くなったことで、ラグビー部は他校のグラウンドも借りて鍛錬を積んだ。この苦難を乗り越え、年が明けた28年1月、2度目の全国大会出場を果たした。

だが、大会を終えると、「チーム潰滅の危機」(中学8回・永代俊男)が待っていた。5年制の福中を4年で修了できたため、5年生ばかりか、旧制福岡高などに進学を決めた4年生の主力6人も部を去ることに。永代らは新入部員の勧誘に励み、陸上部員にも懇願して何とか試合できる人数を確保したという。

部員集めに奔走し歴史をつないだ中学8回

28年12月23日、全国大会九州予選決勝。その相手は、やはり好敵手の修猷館。福中部員は水杯を交わして春日原へ。互いに一歩も譲らず、前後半とも0点。延長戦を重ねても点が入らない。2日後の25日に再戦した。福中は前半に3点を先制したものの、修猷館が後半に6点を奪って逆転。公式戦で初めて修猷館に敗れ、全国大会出場を逃した。

どう部員を集め、部を存続させるのか―。その繰り返し、それが歴史をつなぐ。29、30年度と2年連続で全国大会に出場したものの、31年度には、またも部員不足に。必死の勧誘で陸上部や柔道部の生徒も入部。ここで部に復帰したのが、陸軍士官学校を目指して退部していた中学12回の新島清。後に福高ラグビー部の監督となる。「もう一度、一緒にラグビーを」という同期の誘いがなければ、歴史は変わっていたかもしれない。

この年の合宿には、明大の渡辺周一(中学9回)、松隈保(同)が、日本代表選手を連れて指導に訪れた。第一線を目の当たりにすること、体を当てること、その言葉を耳にすることが成長につながる。

夏に帰省し後輩たちを鍛えた藤熊夫(左 中学14回)新島清(右 中学12回)共に明治大学で主将として活躍

卒業したOBたちがグラウンドに足を運び、現役に熱を注ぐ。それが福中・福高の伝統。明治大に進んだ新島、中学14回の藤熊夫らが夏に顔を出し、部員を鍛え上げた。現役、OBの思いが歴史をつなぎ、勝利をつかんでいく。

32年度から7年連続で全国大会出場。ただ頂点は遠かった。

今も続く好敵手修猷館との激闘(2023年5月 九州大会予選・準々決勝) 

転機となったのは、この一戦かもしれない。

39年11月、全国大会九州予選の初戦。対峙したのは修猷館。砂煙の中での激闘は引き分けで、抽選の末に修猷館が先に進んだという。福中は8年ぶりに全国大会を逃した。

「この汚名をそそぎ、全国制覇の偉業を達するにはどうあらねばならぬのか」。新チームの主将となった加勢田太郎(中学20回)ら最上級生は話し合った。ラグビーは15人では勝てない。2軍、3軍の控えの選手がいて満足する練習ができてこそ、試合で勝てる。

加勢田は同期の村上令とともに校長に直談判した。「全校生徒を運動場に集めて部員募集をやらせてほしい」。校長は困った表情を浮かべたものの、この申し出を認めた。全校生徒の前で整列するラグビー部員。加勢田が主将として壇上に立った。何を言ったか、その記憶は定かでないが、とにかく懸命に語りかけた。その誠意が伝わったのか、部員は30人を超したという。

最上級生を中心に練習も見直した。秋になると日没が早いから練習時間が足りなくなる。基本プレーは休み時間に各自で取り組み、放課後はチームプレーを中心にする。スクラムの練習は単独でせず、走る練習に組み込み、試合をイメージした。

加勢田太郎主将率いる中学20回

11月の全国大会九州予選では修猷館に逆転勝ち。年明けの全国大会でも2回戦で保善商に3対0で勝利。だが、その一戦で最後まで闘っていた石本善信(中学20回)が試合後に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

台北一中との決勝戦。朝から雨が降っていた。石本の死去が部員全員に伝えられ、喪章を付けて試合に臨んだ。みぞれ交じりの雨にぬれ、強い風にさらされた。前半は相手を自陣に釘付けにして攻め立てたが、ゴールラインに届かない。後半、パスミスからトライを奪われた。0―3。初めての準優勝。でも、あと一歩、頂点には届かなかった。

昭和16年1月7日南甲子園 優勝旗授与式 決勝で台北一中(台湾代表)に涙を飲む(中学20回)

昨季の雪辱を果たすために、石本先輩のために、ひたすら練習を重ねた1年。全国大会の1カ月前には、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まっていた。大会は関西と九州の2会場で、それぞれ雌雄を決することになった。

中学21回の高橋敏夫が残した記録を基に、この決勝戦を呼び起こしたい。

決勝戦で対戦したのは鞍山中。春日原頭はぬかるみ、身が切れるような寒風が吹く。全校あげての応援となり、生徒たちがスタンドで見守る。応援団長が日の丸の扇をかざし、生徒が手拍子を響かせていた。

前半、押し気味に試合を進めたが、鞍山中のウイングが俊足を生かして先制のトライ。だが、福中は25分にペナルティゴールで返し、さらに28分にはセンターの鶴丸民夫の突破で逆転のトライ。6―3とリードして前半を終えた。

昭和17年1月4日 鞍山中との決勝戦 寒風吹きすさぶ泥中戦

後半、ゴール前のこぼれ球をおさえてトライをあげ、突き放す。だが、鞍山中もあきらめない。またもウイングのトライで9―8と1点差に迫られた。なおも一進一退の攻防が続く。残り、あと5分、あと3分。そしてホイッスル。

ついに手にした全国大会での優勝。試合後の一枚の写真が全てを物語る。

泥だらけのジャージーとパンツ姿で、ともに闘った仲間と肩を組む。

学生帽は戦闘帽となり、学生服も黒から国防色のカーキに変わった時代にあって、その笑顔は眩しかった。

(敬称略)

鞍山中(満州代表)との決勝戦に勝利した福中ラガーマン(中学21回)

※参考文献

福高讃歌(西日本新聞社)

殺身為仁(新島清)

福中・福高ラグビー50年史「千代原頭の想い出」

修猷館ラグビー七十年史

文/入江剛史

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